【豊中駅前の歴史:57】「七夕まつりについて考える」(2014年7月)
「七夕まつりについて考える」その1
——何がきっかけで「七夕まつり」をする事になったのですか。
松浦氏:歩行者天国にしたい!日頃お世話になっているお客さんに特に子どもさんに喜んでもらいたい」これが商店街の店主みなさんの声でした。昭和54年が始まりです。一番街の東側を歩行者専用とし、車道の真ん中に工事用のバリケードを立てました。商店街の両サイドには笹飾り、各店舗の前では金魚すくいやヨーヨー釣りなど、今と同じような店が並びました。その時からテキヤは入れないと決めていました。いざ始めてみたら、びっくりするほどの人が来てくれました。警察の発表で6万人だったそうです。当時ボゼムビルもジオ1300もありませんでした。ゲストは「藤田まこと」と「海原さおり・しおり」、舞台はボゼムが建つ前の原っぱでした。
「来年からは認めん」と警察に言われましたが、実は翌年から本格的な七夕まつりが始まることになりました。銀座通りや新開地市場、阪急市場などが加わって駅前全体のまつりになるのですが、何よりもそのための関係機関との話し合いと言うか、理解してもらい許可を貰うのに大変でした。当時歩行者天国は東京ではありましたが、全国では未だ珍しいことだったようです。
「七夕まつりについて考える」その2
——そのころ芦田さんは豊中市市民部商工課振興係長でした。当時を思い出して頂きたいのですが、
芦田氏:豊中駅前の商業団体のリーダーの皆さんが「相談に乗って欲しい」と言って来られて、部長室でお会いしました。
「昨年、一番街の片側車線だけ車の乗り入れを規制し七夕まつりを開催したが大好評であった。今年は銀座通りも一番街も一緒になって、豊中駅前の東口を歩行者天国にしたい。前回と違って問題も大きいと思う。どんな問題が起こるか、どの様な関係機関と話し合うのか、どうすれば良いのかなどを教えて欲しい」との事でした。
確か、先ず、私がお話したのは、「どんな課題が想定できるか、その課題はそれぞれどの関係機関と協議するのかを一緒に整理しましょう。それに、それぞれ殆どが初めての経験の機関でしょうから、私も随行します」と言ったと思います。開催にあたり、地元商業団体が中心になり、実行委員会を立ち上げ、主体的に実施することを前提・覚悟して、今の七夕まつりが始まったということになるのでしょうか。
何せ、当時では前例の無い大規模な「歩行者天国」をやろうと言うのですから、関係機関は大変多いと同時に趣旨・意義に理解を得て、事業への協力を得るのに随分時間が掛かりました。豊中市の土木部の道路使用(占用)許可は勿論のこと、警察には交通管理者としての立場から、道路の使用許可と交通整理の問題があります。警備は地元が責任を持ってやります、という事で理解を得ました。警察は大池小学校の前などの違法駐車の取り締まりなどで協力してくれました。高槻の国道事務所にも日参しました。銀座通りにあるバスの停留所を旧大和銀行の前に移設することは、国道を一時使用することになるため、手続きが必要となる訳です。このことがなかなか理解されず、困りました。やっと許可が出ましたが、バス停の移設で歩道をバス利用者の乗降口とするため、現状の国道の柵をわざわざ切断し、七夕まつり終了後には溶接して修復しました。その後も毎年、同じことを繰り返しました。その都度、高槻に脚を運んでいた訳です。阪急バスにも大変な協力をしてもらっています。バス停の移設のお知らせのため、大きな看板を作って貰ったり、チラシの配布、車中の中吊りにもお知らせを載せてくれていました。消防署には、消火栓を塞ぐことになるのでその理解を求めました。今思い出せるのはこれ位でしょうか。
——お話をお伺いしていますと、地元の商業者が自ら豊中駅前を車に邪魔されず歩きやすいまちをつくり上げようと思い立ち、その思いを一緒になって共に必死に汗をかいて来られたのだなと思いました。
芦田氏:数年前に交通実験が豊中駅前で実施された事を思い出して下さい。まちの交通手段であるバス、タクシー、電車の利用を見直し、環境の事も考えたあの実験の原点は、実は住民(商業者)が始めた「七夕まつり」であったと言えるのではないでしょうか。交通実験も行政主導ではなく、住民主導・行政支援の交通社会実験として当時、高く評価されていましたね。
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