【豊中駅前の歴史:11】新免について(2010年2月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました
今回は、「とんぺい」さんから千里川までの変遷を土橋さんにお伺いしました。

——ホテルアイボリーの横に「新免」館がありますね。また、お祭りの時なんかには「新免」の太鼓が宮入すると年配の方から聞いたりしますが、新免とは、どのあたりの〈こと〉をいうのですか?
【土橋】先ず、「新免」という地名の起源は「日本地名辞典・大阪府」(角川書店)や「日本の歴史地名体系」(平凡社)などによると、室町期から戦国期に見える地名・村名と考えられます。またその範囲は、「豊中台地のほぼ北西端、千里川が桜井谷を抜け出た所の南岸低地から台地にかけての村域である。新免村は、桜井谷の内田村、柴原村、南刀根山村の南にあたり、西は箕輪村、南は当村枝郷轟木村に隣接する地域である」とあります。現在の地名で言いますと、本町1~9丁目、上野西1~2丁目、岡上の町1~4丁目、玉井町1~4丁目の辺りになります。
——土橋さんは大変熱心に「新免村」について調べられ、目下「新免村をもっと理解するために」という冊子を作成中と聞いていますが、どの様な思いから始められたのですか?
【土橋】新免村の長老の方々が段々に他界され、村に纏わる話も徐々に薄れて行くことへの危機感ですね。このままだと若い世代に引き継がれないと思い、今のうちに話を聞き、書き溜め冊子にまとめようと思い立ちました。新免村の出身者はもとより、他所から移り住んで来られた方にも、自分たちのまちの歴史の一端を知っていただくことで、何かの役に立ちはしないかと思っています。
——作成中の目次を見ても大変多岐に渡り項目が並んでしますね。新免村の起源、千里川など水との戦いの歴史、能勢街道など街道について、保護樹林、寺社、高校野球発祥の地など・・・その中に「遺跡」がありますね。
【土橋】実は私の実家をマンションに建替える工事の際に、須恵器の破片がたくさん出ました。文献によると、「地区内には弥生中期(紀元前1世紀)~後期の遺跡や古墳前期(3~4世紀)の新免上佃古墳、古墳後期の新免宮山古墳群がある。又、白鳳期の創立と伝えられる新免廃寺や天平期(729~749年)に行基の開創と伝えられる金寺の跡がある。村内には「本町遺跡」と「新免遺跡」がある」とあります。私の家はその「本町遺跡」の一つです。「本町遺跡」については、「阪急電車の豊中駅から箕面に向かう道路沿いにあり、千里川の東側の小高い丘の上の広がる遺跡で、今から1800年前(弥生時代後期)に始まり、1400年前(古墳時代後期)には、大きな村として栄えていた。この地域では、弥生時代から鎌倉時代までの遺跡・遺物が見つかっている。特に須恵器の不良品や大型の堀立建物の跡が発見されたことから、この遺跡の北方にある桜井谷村窯跡群との関係から、桜井谷の多くの窯で作られた製品が、水運や陸運によりここに集められ、各地へ運ばれていったと推察される」とあります。どうも私の家はその頃は窯に従事する人の住居だったらしく、窯は今のパチンコ屋さんのある辺りにあったらしいです。マンション開発が盛んになるに従って遺跡の発掘調査が頻繁に行われています。
——大変興味あるお話です。これだけ良く調べられるには大変な苦労があったと思いますが、これから冊子を纏められるにあたって、今どんなことが気になっていますか。
【土橋】本町3丁目にはお寺が3つもあります。看景寺、光源寺、法雲寺いづれも浄土真宗ですが、どうして左程広くもない地域にお寺が3つもあるのか、それが疑問です。それと、ホテルアイボリーが建つ前の山西邸の門の写真を探しています。陣屋門というのですが、それは立派な門でした。お屋敷も素晴らしいもので、子供の頃は中で遊ばしてもらったものです。私の思い出もありますが、昔にはこんなお屋敷があったことを後世に伝えたいとの思いがあります。でもいつまでに冊子として纏められるかは判りませんよ。もう若くもなく体力にも自信がありませんし、、、。只これがきっかけでもっと詳しい情報が集まるための中間報告みたいなものとして作りましょうかね
——このシリーズを読まれた方の中で、土橋さんの疑問や写真について知らせて下さる方がおられたら良いですね。
今日は、有り難うございました。冊子が出来上がるのを楽しみにしています。


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