【豊中駅前の歴史:37】「金禅寺」 本町5丁目周辺(2012年8月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は「金禅寺」のご住職からお話を伺いました。

——広報とよなか8月号に、「・・・池底から突如観音が出現し・・・金禅寺で大切に保存されています」とありましたが。
住職:当寺の本尊十一面観世音菩薩のことですね。ご本尊は秘仏にて、年に1回8月18日のお施餓鬼の時に公開します。鎌倉時代前期の作です。御丈は五尺余り、その端麗美妙なる容姿を今に伝えています。胎内には観音経一巻、心教一巻外、開山された鉄眼(てつげん)禅師の遺録にある重装大悲像紀、そして多数の施主名が墨書で納められています。府の有形文化財に指定されています。
——700年近く前に作られた観音像が現存していることに驚きます。戦国時代にこの辺りは織田信長と村木政重との戦いで壊滅的な被害を被ったと聞いていますが。
住職:金禅寺の前身は天平時代行基により、七堂伽藍があり、千の宿坊を持つ「金寺(かなでら)」であったと謂われています。戦国時代までは荒廃していたのでしょう。江戸時代に入り、鉄眼禅師がこの地に八ヶ道場の一つとして、本堂を復興し、仏像を修復し、金寺に禅の一字を加え「金禅寺」号を「大応山」と称し、京都宇治黄檗山万福寺の末寺としました。当時この地は上総国飯野藩主保科弾正の所領で、その広さは新免・勝部・小曽根・走井とあります。今日も保科一族の御位牌のみ安碑してあります。
——箕面街道沿いの稲荷神社の鳥居をくぐり、右へ上がっていくと豊高道に出ますが、その前に金禅寺に続く坂道がありますね。
住職:これは推測ですが、金禅寺も稲荷神社も同じ敷地に合ったのではないか、それが明治時代になって廃藩置県で金禅寺は無禄寺となり、神仏分離令などで神社とお寺が切り離され、今に至っているのではないかと思います。
——本堂の前にかなり古い石塔がありますが。
住職:正式名は「三重宝筐印塔」で1349年鎌倉時代に建てられたものです。花崗岩で作られています。現在はありませんが、上部の相輪を併せ6ヶの部分からなるものです。「高さ五尺六寸 御影石 年代は貞和五年十二月二十六日(南北朝)に建てられた供養塔で吾国石造美術品中でも逸品である」と国の重要文化財に指定されました。
——大変興味あるお話を聞かせて頂きました。今日は有り難うございました。

(大應山 金禅寺住職 辻岡秀幸)


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