【まちなかの散歩:18】見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高くとべるを(2010年2月)

【まちなかの散歩:18】見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高くとべるを(2010年2月)
 貧困と孤独にさいなまれた石川啄木の詩に「飛行機」がある。1886年から1912年という短い生涯を終える前年の作品である。短い詩であるから全文を引用する。「見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを。給仕つとめの少年が たまに非番の日曜日、肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、ひとりせつせとリイダアの獨学をする眼のつかれ・・・・・・見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高くとべるを。」

 朝の散歩中にみえる、上昇し続ける白い斜めの機体は、思わず、この詩を口にさせる。高く飛び、何処に行くのか、とかつて訪れた地を思い浮かべ想い出を楽しんできた。しかし、最近では、この詩が呼び込んだのかと思うほど関連する問題が生まれている。日航・JALの再建問題、大阪国際空港(伊丹)の存廃問題、雇用難、苦学する少年の問題、母の看病・介護の問題、肺結核の復活問題、・・・。そして、それらを考え込んでいると、思わず挨拶をしくじってしまう。
 『窓を開けなくなった日本人』という書籍が出ている。最近、窓やサッシなどの建具を日本人は閉めたまま開けなくなってきているのではないか。窓を開けると同様、スリッパを履き替える、階段を上がる、歯を磨くといった住まいで展開される日常茶飯事のこと、日常の些細で単純な行為、私達が住宅の中で展開している当たり前の生活行動を改めて考えようという目的とある。
この指摘は、「起居様式」という住まいの中で展開される諸行為に留まらない。名も知らぬ人とはいえ、毎朝、顔を合わす顔ぶれに挨拶はおろか、会釈さえ交わせなくなっているコミュニケーション不足は、通学途上の児童・生徒にも影響を及ぼしている。

 先の飛び立つ機体(期待)に関連する課題とどう向き合うか、解決を語り合うにも、それぞれに心を通わさない日常。プライバシーを尊重する集合住宅という住まい方、そして刺激的に演出されたメディア、情報源も不安定なインターネットを通じての情報。飛び交い、氾濫する情報の中で、身近な生活環境を改善するための真っ当な議論は、どこで組み立てられるのか。我々自身にも、扇情的な発言・報道に右往左往されず、“世論の液状化現象”を防ぐ日常の対話の努力が求められているのではないか? 時、あたかも、あの阪神大震災から15年である。流言飛語に惑わされないように、地域の力をつけておきたいものである。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.28に掲載)


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