【豊中駅前の歴史:21】「北屋敷」と呼ばれていた本町2丁目周辺(2010年12月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は辻本さん(本町3丁目自治会長)に案内して頂き、本町2丁目の戦前「北屋敷」と呼ばれていた辺りにお住まいの川戸さんにお話をお伺いしました。

——川戸さんは今年で101歳になられると聞きていますが、大変お元気ですね。その秘訣は何ですか。
【川戸氏】お陰さまで、大変元気にしております。元気の源は人との会話です。毎日誰かと会話するよう心掛けています。仕事から身を引き、自宅に居る時間が多くなるとどうしても引き篭もりがちになるものです。これでは良くないと思い、お隣やご近所の方々とお話をするよう努力しましたが、仕事一筋で生きてきた男には、なかなか会話は難しいものでした。一念発起し、町内会の方々に「私の自宅で語り合いませんか」とお声を掛けて、地域の交流の場として使ってもらうようにしました。これがきっかけで、昭和60年に「喜久の会」を立ち上げました。その頃は老人会もありませんでしたし、町内の方々が集まり、様々な活動が生まれました。いつも誰かが来て話しをして行かれる、そんな毎日でした。
——お習字を教えておられるとお聞きしましたが・・・
【川戸氏】いいえ、私は教えてもらっている方です。習字の先生にお願いして、母屋の一室をお習字の教室に使ってもらっています。私も教えて頂きながら、先生や生徒さんに混じって会話が出来るのです。これが元気の源です。
——先ほど、拝見させて頂きましたが、立派なお部屋ですね。
【川戸氏】和洋混合の所謂「昭和モダン」といわれるような造りです。その頃の流行だったのでしょうね。今でも月に1回「喜久の会」の集まりに使ってもらっています。会長職は10年余り務め、今は退いていますが、会に参加して皆さんと会話するのが楽しみのひとつです。
——このお屋敷にはいつからお住まいですか?
【川戸氏】父をはじめ家族みんなで大阪から移ってきたのは、昭和10年だと思います。当時の記録をみますと「・・・宅地615坪、本宅母屋70坪、洋館2階建て44坪、土蔵16坪1棟、その他附属建物付きを買収し、別室2室を増築・・・」とあります。その頃は大家族でお手伝いさんも数人いて、大変賑やかでした。
——大変広いお屋敷ですね。
【川戸氏】この辺りは2~300坪の屋敷が建ち並んでいました。大阪で事業していた人達には、このようなお屋敷まちに住むのが憧れだったと聞いています。でも戦争で変わってしまいましたね。
——空襲で大変な目に遭われたと聞いていますが・・・
【川戸氏】私の屋敷にも爆弾が落ちました。昭和20年に入り空襲が激しくなると、家族の多くは疎開していましたが、6月7日と15日の2回に亘る空襲で、母屋は半壊、大阪から移ってきた時に建増した2室は吹き飛び、見るかげも無い状態でした。幸い落ちたのが焼夷弾ではなかったので火災は免れましたが、燃えてしまったお屋敷も幾つかありました。この爆撃で住むことができず、終戦から数年間は梅花女学校の近くあった別荘を買いそこに転居していました。その頃に父が駅前に「豊中タンス店」を開業しました。昭和23年だったと思います。私は「大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)を卒業し、直ぐに父の会社に勤めておりました。
——多難なことも多々ありながら1世紀生きて来られて、このように穏やかで優しいお人柄には、敬服いたします。
【川戸氏】いいえ、これはみなさまのお陰です。辻本さんのお父様には大変お世話になり、土地の人達とも仲良くなれました。ご近所の人達とも暖かい関係が作れました。私は人と話が出来るのが一番有り難いのです。いつでもこの部屋を開放しますので、地域の集まりに使ってください。私もそこに参加させて頂きます。
——有り難うございます。お言葉に甘え、お部屋を使わして頂く事を考えてみます。そのときは宜しくお願いします。今日は有り難うございました。

(川戸俊治氏プロフィール: 明治42年1月27日生まれ 本町2丁目在住)


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