【まちなかの散歩:25】「公(おおやけ)」を「私(わたくし)」すべからず(2010年9月)

 手元に『都市の日本人』を書いたロナルド・ドーア氏が東京新聞・中日新聞に掲載したコラムをまとめた上記の書物がある。その「序にかえて」に次のような趣旨の文がある。
 公と私。儒者が「公を私するものが国を滅ぼす」と唱えている。今日の「公を私する」風潮は、公益を私益に分解する制度的変化となり、国民の共有財産を個人に払い下げたり、公営の事業を私的な営利事業に変えたりするばかりでなく、同じ人生の諸危険にさらされている国民共有の保健・保険制度を弱者への隠れた再配分作用の要素が多すぎるから、自立自助と称して、なるべく営利事業化し小政府・弱政府の実現をはかるのが今様の「公を私する」発想である。もっとも、そういう発想をする人たちは「公と私」と言わないで、「官と民」という。「民尊官卑」は「私尊公卑」ということになり、利己心である。天皇制時代の「官」と民主主義時代の「官」は違い、「公益」は打ち捨てるべき概念ではない。その公益の認識を支える「社会の連帯意識」も非常に大事だ。貧富の差が拡大していく社会では、その連帯性が蒸発する。市場主義者の唯一善―経済効率―よりも価値がある。
 我々は、多数を占めて合法的に権力の座を占めても、道に背き、道理に反して、その権力・権限を行使し、横暴を極めていくことを歴史で学んだ。民主主義の物事の決め方の一形態として「多数決」があるが、相手の意見を良く聞き入れることで己の意見を修正する「熟慮」し、翻意する民主主義本来のプロセス・過程があるはずである。
 多数を獲得した者は少数者を思いやり、権力・権威を持つに至った者は、それぞれの権力景観論争で有名な「国立(くにたち)マンション訴訟」は、東京都国立市で次々の建設される高層マンション建設で学園都市・国立のシンボルとして長年市民に親しまれてきた銀杏・桜の並木の風景が壊されることをめぐって争われ、「景観利益は法律上保護に値する利益に当る」と最高裁は判断した。かつて千里ニュータウンで、先住住民が眺望権を主張して、高層の集合住宅の建設に反対する運動が展開されたことがある。城崎の外湯めぐりは有名だが、有馬のまちづくりも、それぞれの自社のホテル・旅館に囲い込むのではなく、街を回遊してもらう仕組みに工夫を凝らしている。大阪・梅田・キタのまちづくりが、これからも、迷路のような地下道を数多く抱えながら、超高層からの眺望を競うらしい。千里センターなき千里ニュータウン以上に奔放に資本の論理を貫徹させる、この地のエリアマネジメントを誰が行なうのだろうか?と電車に乗れば13分の隣村の住民は思う。「社会的共通資本」とは、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、豊かな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的・安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味し、大気、森林、河川、水、土壌などの「自然環境」、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの「社会的インフラストラクチャー(都市基盤)」、そして教育、医療、司法、金融制度などの「制度資本」から成る。(『社会的共通資本』)これらが、どのように管理・運営されているか、税の配分、統制のあり方、公共事業のあり方、公の施設の建設・運用・廃止の方法。昨今の政治・経済の潮流を見るにつけ、考えさせられることしきりである。千里川の歩道を占拠して自転車を止める児童、道を譲っても挨拶もせずに通りすぎる自動車。放置し自動的に正せないならば、その仕組みづくりをどうするのかが問われるところではないか?

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.42に掲載)


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