【豊中駅前の歴史:18】稲荷神社周辺(2010年9月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は稲荷神社の直ぐそばにお住まいの本田さんに、お話をおうかがいしました。

——毎年お宅の桜を眺めさせて頂くのが楽しみで、特にライトアップされた桜は昼間とは違って一段と素晴らしいものですね。あの桜の木はお屋敷を建てられた時からのものですか。
【本田氏】いいえ、あの桜は昭和35、6年頃に植えたものです。屋敷が建ったのは昭和11年11月です。私が9歳の時に、一家で大阪から移ってきました。
——ご両親はどうしてこの地を選ばれたのでしょうね
【本田氏】先ずは地盤がしっかりしていて、高台にある事。次に閑静な所で、お宮さんの森が借景になり、緑が豊かである事。そして通勤に便利である事などを父親から聞かされていました。また、教育の水準が高い事もあったのではないかと思います。開校されたばかりの大池小学校に3年生で入ったのですが、みんな勉強がよく出来るのに驚きました。その当時は「克明第三尋常小学校」と呼ばれていましたね。
——そのころのお屋敷の周りはどんなものだったのですか
【本田氏】私の屋敷が建つ前に既に両隣には2軒のお屋敷がありましたが、向かい側は家屋が殆ど無い森というか雑木林のようになっていました。裏側はお宮さんの森ですから、閑静というよりは静か過ぎて寂しいような感じでした。阪急電車が走る音もよく聞こえていました。暗くなると駅に着いた姉を迎えに行くのが私の役目でした。今の豊高道、私が通っていた頃は中学校道とか、豊中(とよちゅう)道と言っていましたが、この道沿いも商店街を抜けると街灯が疎らで暗かったです。今、ライフがある辺りにはお医者さんの大きなお屋敷とカトリック教会があったぐらいで、道の向かい側は直ぐに池でしたからね。学生の頃に写真に凝っていまして、その頃の写真の中にお宮さんの「上の池」から「カトリック教会」を写したものがあります。カトリック教会の建物も建替え前のもので、それを見れば当時の情景が判ります。
——今も閑静な住宅地ですが、森や林はなく住宅が建ち並んでいますが、いつごろから変わっていたのですか。
【本田氏】大学時代は北白川に下宿していましたので、その頃の事は余り憶えていませんが、やはり戦後からでしょうね。お向かいの雑木林にも昭和15、6年頃に洋風の大変モダンな邸宅が建てられました。またその一画に和風の立派なお屋敷も建っていました。そして戦後少しずつ住宅が建って行きました。昭和30年代には、この一画に広い敷地をもったカトリックの聖体礼拝会があり、森の中の修道院といった雰囲気がありましたね。外国人の修道女もよく見かけました。
——今は住宅が並んでいますが・・・
【本田氏】修道院は昭和40年代になくなりました。実はその跡地を巡って一大事が起こりました。マンション計画が持ち上がったのです。計画を知った周辺の奥様たちが結集し、断固反対しました。日照権の問題もありますが、「周りの道路の状況を考えて欲しい、こんな狭い道に囲まれた所にマンションを建てたら、車の通行と歩行者の安全に重大な問題が起こる」と主張し、粘り強い運動の結果、計画を取り下げてもらいました。今は、春になると向かい合わせで桜が咲き合う坂道まで、住宅が建ち並ぶ静かな住宅地の一画をなしていますね。
——やはり稲荷神社の森がこの辺りの住宅地のシンボルといえますね。
【本田氏】その通りですね。稲荷神社とその森がなければ、私たちもここに住むことになったかどうか・・・。シンボルといえば、神社にとても高い松の木が2本、重なるようにして立っていましたね。浪高(大阪大学の前身)から帰宅途中の春日橋辺りからもよく見えました。何処からも見えるほど抜きん出ていましたが、いつ頃か見えなくなって寂しいですね。
——松の木のことはどなたかに尋ねてみます。今日は有り難うございました。

本田陽一氏プロフィール: 昭和2年11月生れ 本町7丁目在住


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