【豊中駅前の歴史:96】豊高道を振り返る-2(その1)(2018年7月)

今号は、内田裕康さんからスクランブル交差点前にあった「内田酒店」のお話を伺い、豊高道を振り返ります。

内田氏:まちづくりニュースの4月号に「アーチプラザ」の写真が大きく載っていましたね。
——あの写真は『豊中駅周辺地域のまちづくりビジョン(素案):1989年7月発刊』にあったものです。当時の駅前の若手商業者の団体「豊中駅前青年協議会」のメンバーが仕事の後に、まちの生い立ちや現状を分析して“自分たちが考える将来像”を最初の「駅前の将来像」として地域に提案したものです。
内田氏:アーチプラザが出来たのは確か1988年頃だったと思います。駐車場の一部の有効利用を住友信託に相談して、10年間の契約で出来たものです。建てたのは積水でした。その後、1年間くらい「大和銀行(現りそな銀行)」が建替える間の仮店舗になりました。それから「明響社」さんになり、入り口に舞台を作られました。今はツタヤさんですね。
——その頃、向かい側(現クローバー歯科)には、2階が「うちだサロン」と呼ばれたグランドピアノがあるサロン、1階はワインなどお酒がメインのミニスーパーのおしゃれな建物がありましたね。
内田氏:会社の事業は小売店と卸問屋とがあり、この場所は開業当時から建物を借り受け小売店を営業していました。本町郵便局さんが今の場所に移転される際に改築しました。
——当時珍しい「ドンク」のパンを売っている酒屋さんのイメージが強く残っているのですが、昔からの酒屋さんですね。
内田氏:大正の終わり頃に、大阪の北区から移ってきました。祖母が病弱だったので、祖父が療養を兼ね住いも商売もこの地に移したと聞いています。池がそばにあって自然に恵まれ、空気が良く、駅に近くて、交通の便の良い場所としてこの地を選んだのでしょう。敷地内には私が憶えているのは、祖父の隠居所、事務所、倉庫、ビン場(一升瓶の置き場)、駐車場、従業員の宿舎、そして数軒の借家などですね。
——大正時代であれば、大池小学校は未だ無かったわけですね。
内田氏:大正15年生まれの父は、大池の土手を通って桜塚小学校(当時:克明第二小学校)に通っていたと言っていましたね。
——今日は有難うございました。もっとお話をお聞きしたいので、次回もよろしくお願いします。

プロフィール/内田 裕康 昭和23年生まれ 東豊中町在住/(株)未来協会さくらCEO


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