【豊中駅前の歴史:94】箕面街道 本町4丁目バス停付近(2018年3月)

今回は箕面街道沿い本町4丁目バス停近くにお住まいの中野さんにお話をお伺いしました。

——以前「中野神経科」という精神神経科病院があったのを覚えておりますが、中野さんはこの地のお生まれですか。
中野氏:私が生まれたのは大阪市内の福島です。昭和20年6月の大阪大空襲で全てが灰となり、家族みんなで現在の地に移り住みました。当時私は5歳でした。ここは福島の「中の天神」の神主であった祖父の別宅があったところでした。福島では火の雨のような焼夷弾が無数に降ってきて周りが火の海で大変怖かったことを今でも覚えています。避難してきた豊中でも空襲があり、敷地に掘った防空壕に避難していたことを微かに覚えています。
——お祖父様は神主をされていたのですか。
中野氏:戦前までは福島には「上の天神」、「中の天神」、「下の天神」と3つの天神さんがあり、漢方医でもあった祖父は「中の天神」の神主として秋田県から移ってきたと聞いています。「中の天神」は戦災で消失しました。箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)の豊中駅が開業されたのが大正2年(1913年)ですから、大正か昭和の初め頃に祖父がこの地を買って別宅にしていたのだと思います。屋敷の裏は山林のようだったと記憶しています。食糧難だった終戦直後は畑を耕し作物を植えていました。
——このシリーズでも戦争で皆さん大変苦労されたお話を数多くお聞きしました。
中野氏:私の父が舞鶴港に引揚船で復員してきたのが昭和28年でした。朝鮮戦争が休戦になった年です。出征した時は私は1歳でしたので、帰ってきた父を見ても直ぐには実感が湧きませんでした。医師であった父は満州でソ連軍に捕まりそれから中国共産党軍(八路軍)に引き渡され、国共内戦の戦地を転々としたと言っておりました。生前父は詳しい話はしませんでした。口に出せない本当につらく厳しい体験をしたのでしょう。日本人の医師、衛生兵、看護婦さんも沢山おいでになったそうです。 その後、文化大革命が終わり中国が鄧小平の時代になった頃に、中国から当時の功績への感謝の招待を受け、私も父に連れられ中国に行きました。同じような境遇に遭った人たちと懐かしそうに語り合っていた姿をよく覚えています。
——中野さんの敷地は大変広いですね。
中野氏:1000坪くらいでしょうか。私が小さい頃は箕面街道沿いのお家はみんなこれ位の広さがあったように思います。買った当時は山林だったので安かったのでしょう。道路を挟んで向かい側にも土地があります。箕面街道が開通したのが昭和7年と聞いていますので、敷地の中に道路が走ることになり、飛び地になったというわけです。箕面街道が開通するまでは、北原医院前の信号を東に入る細い道路が内田、野畑、桜井谷へと繋がる旧道しかなかったのですね。その飛び地の横の狭い切り通しを抜けると広い敷地に木造の家屋がずらっと並んでいました。住友化学工業の社宅でした。今は全て鉄筋に建て替わっていますね。今、「スーパー万代」がある所は乗馬クラブでした。角帽を被った学生が馬に乗っていたのを覚えています。その後、全購連(注)の社宅になり、前にはテニスコートがありましたね。その前を通って2中に通っていました。その頃の箕面街道の両脇は田んぼと畑ばかりでした。
——今日は有難うございました。
注:全購連:「全国購買農業協同組合連合会」の略称
1948年農業協同組合法に基づき、米、麦、デンプン、青果、肉畜、鶏卵など、農畜生産物を適正、組織的に販売するための中央機関として設立された。71年には各都道府県の 55連合会を会員に、出資総額約 28億円、年間取扱高1兆 2000億円を超えたが、72年3月全国購買農業協同組合連合会と合併、全国農業協同組合連合会を設立して解消した。
(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

プロフィール/中野 康夫 昭和15年生まれ 本町4丁目在住


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