【豊中駅前の歴史:62】「戦争を振り返る-4」(2014年12月)

「図説 豊中空襲」より(2)
今回も引き続き「図説:豊中空襲」(能登宏之 編・著)から戦争を振り返りたいと思います。数多く寄せられた体験者の伝言からお一人の体験談を一部割愛し紹介します。
「悪夢の6月7日」本町空襲
私は昭和3年生まれの82歳、昭和14年頃から豊中市新免651番地(北屋敷)に住んでおりました。父と母と私と弟2人と妹1人の6人家族でした。府立豊中高女へ入学した年の12月8日に太平洋戦争が勃発し、2年生からは英語の授業がなくなりました。毎日勉学に励んでいましたところ、4年生のときに学徒動員法が施行され、学業を中断して軍需工場に行くことになりました。・・・日常生活で英語を使用することが禁止され、お米や砂糖、煙草が配給となり、衣料品も自由に買えなくなって困りました。“ぜいたくは敵だ”“欲しがりません。勝つまでは”“進め一億、火の玉だ”と我慢の毎日でした。・・・
昭和20年3月に1回目の大空襲があり、大阪市内の家屋が数多く焼失し、大勢の死者がでました。6月7日に再び大空襲があり、今度は大阪北部、淀川に近いところは焼夷弾で爆撃され豊中市周辺には爆弾が落とされました。阪急電車が止まって動かないので、同方面へ帰るお友だち数人と歩いて帰りました。・・・豊中方面が爆弾の攻撃が受けていたことを全然知らなかったので、豊中駅の引込み線に停車していた電車のガラスが粉々に壊れていたり、駅前近くの朝倉表具店の大きなガラスが割れていたり、荒井自転車店や直田歯科医院の様子を見た時、余りにも思いがけない光景に何が起こったのか理解できませんでした。更に、近畿無蓋の角を曲がったとたん、私は自分の目を疑うほど驚きました。住み慣れた二階建てのわが家が柱数本を残して瓦礫の廃墟と化していたのです。・・・斜め向こうの香取さんの家を爆弾が直撃して、刀根山病院に入院中の息子さんを残してご家族全員が入っておられた防空壕ごと吹っ飛んで亡くなられました。その爆風で私の家も潰れたのでした。・・・爆風に飛ばされてだいぶ離れた家の松の木の枝に引っ掛かって亡くなれた人がおられました。それはそれは大変悲惨な有様でした。・・・
そして翌週の6月15日に今度は焼夷弾攻撃の追い打ちを受けました。幼いころからの思い出の品々を始め、すべてを失って為す術もなく、母の実家の兵庫県明石市の方へ身を寄せるために豊中の地を離れました。


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