【豊中駅前の歴史:14】豊中駅西口の住宅街の形成(2010年5月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回も引き続き、豊中連合自治会会長の中右さんにお話をお伺いしました。

——前号の「「玉井町の住宅分譲が始まった大正3年に起こった大変な事態」のお話からお伺いします。
【中右氏】この年の8月、唯一の取引銀行であった北浜銀行の破綻です。頭取の岩下清周氏は箕面有馬電気軌道(株)の社長であったので、たちどころに資金難に陥りました。先行取得していた池田室町、箕面桜井、豊中の住宅分譲は、頭金2割、最長10年の画期的な“月賦払い”の便法で、企業の中堅サラリ-マンを対象に“家賃ほどで1戸建て、庭付き住宅が買える。夜具と釜だけ持っていけばそのまま住める”と宣伝したので、工業化で120万人に膨れた「煙の都」大阪から空気のよい郊外住宅を求める人に順調に販売されていました。しかし、悠長な販売方法では資金繰りができないので、箕面動物園一帯の土地の売却や豊中住宅地も株を肩代わりしてもらった日本生命を始め大手の銀行・証券会社・紡績会社の社宅用に土地が売却されました。現に多くの社宅や独身寮が残っています。
——今も大きなお屋敷が伊丹街道を越えて岡町や曽根にありますが・・・
【中右氏】電車の開業当時は原田神社の門前町の岡町と服部天神の二駅しか現在の豊中市にはありませんでした。岡町一帯の住宅分譲は明治45年、箕面電車・竹中工務店と大地主が参画した「岡町住宅経営(株)」が開発しました。現在の岡町北・岡町南・曽根西町・宝山町などに特有のレンガ側溝が7万5千坪地域に名声を留めています。国登録有形文化財で、名庭園のある西山住家宅はこの一角にあります。住宅会社は居住者の親睦をはかる交流の場・娯楽場として「岡町倶楽部」を提供していましたが、今は存在しません。
——末広町にも大きなお屋敷が多く、前の道も広いですね。
【中右氏】第一次大戦後の好景気の大正9年に、「岡町住宅経営(株)」が“新屋敷”の名称で住宅分譲したのが現在の末広町などの一帯で、道幅は3間と広く、1間の緑地帯が付いた1区画120坪・240坪・360坪に区画整理された邸宅街として分譲されました。大正ロマンの香りが漂う「常盤・松葉・若葉・千歳・高砂」など通りの名称が付けられていました。
そもそも豊中住宅地は綿畑を区画整理してできた住宅街ですから、当時居住の先覚者70余戸で大正6年に“豊中自治会”を組織しました。箕面電車が設置した「豊中倶楽部」には購買組合を設けたり、ごみの取りまとめ、下水道・道路の掃除、交番所の設置など、住民は安心・安全策を話し合い、お互いに責任分担し、まさに自分達で自分達のまちをつくる自治の精神が必然的に生まれたのだと思います。共同施設「豊中倶楽部」が“地縁コミュニティ”活動に加え、“趣味コミュニティ”の形成に寄与した功績は計り知れないものを感じます。
——自治の精神はまちづくりの基本だと思います。今日は有り難うございました。


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