【豊中駅前の歴史:22】「北屋敷」と呼ばれていた本町2丁目周辺2(2011年2月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は本町2丁目にお住まいの大池地区社会福祉協議会会長の小野さんにお話をお伺いしました。

——小野さんは戦前はどこに住んでおられたのですか。
【小野氏】戦前までは玉井町に住んでいました。以前このシリーズで取材された中右さんとは克明小学校の同級生です。戦争中一緒に帰宅する途中、アメリカ軍のグラマン機に襲われ、道の脇の側溝に隠れた事を良く憶えています。玉井町辺りにも爆弾が落とされました。防空壕の中にいても、その振動で体が上下に大きく揺れ、今でもその感覚は忘れません。
——小野さんが今のお住まいに移られたのはいつ頃ですか。
【小野氏】昭和25年だったと思います。昭和23年に通っていた旧制豊中中学校が豊中高校となり、6年間の学業を終えました。第4期卒業生です。在学中に進駐軍からアメリカンフットボールを教わりました。それが縁で、豊中高校のアメフトのOB会長を務めておりました。豊中高校はアメフト発祥に地で、その記念碑も建っています。詳しくは豊中市のホームページをご覧になれば良く分かります。
その頃の我が家の周りは殆ど家が無く、空地が多かったです。千里川の方へ少し行くと土地が5mほど下がっていますが、その頃は千里川まですべて畑でした。川の向こう側(千里園1・2丁目)は川沿いに竹籔が広がっていました。昭和32、3年の写真を見ると良く判ります。
——その頃は「北屋敷」の面影は既に無くなっていたのですか。
【小野氏】残念ながら、爆撃による爆風のためにお屋敷の殆どは全壊・半壊してしまい、唯一川戸さんのお屋敷だけが残ったようです。北屋敷と呼ばれていた頃は一軒が600坪のお屋敷が並んでいました。私の家はその一部を取得し建てたものです。その頃は敷地の周りには、井戸が4つもありました。北屋敷と呼ばれた区域は今の本町2丁目の全てではありません。1区画を最小600坪と考え、10軒ほどのお屋敷街ですね。今の住所は本町2丁目ですが、その頃は「南轟木」(みなみとどろき)と言っていたようです。3丁目の方は広い範囲で「新免」と呼ばれていました。戦後はそのようなお屋敷の土地が小分けに分譲され、今のような住宅地になったようです。以前に住まわれていた方が戻って来られたお家もありますが、多くは新たに住まいを求めて来られた方ですね。今も年に1回、北屋敷に住んでおられた方々が集まり、爆撃で亡くなられた方々を悼み、その当時を偲ぶ会を催されていると聞いています。
——いつ頃から今のような住宅地になって行ったのでしょうか。
【小野氏】昭和40年代の後半から徐々にでしょうか?私が自治会長を務めるようになったのが、平成元年(昭和64年)ですが、そのときは現在のような住宅地でした。
——小野さんは現在、大池地区社会福祉協議会の会長をされていますが。自治会長も長く務められたと聞いていますが。
【小野氏】町内には以前から婦人部があり、活発な活動がされていましたが、自治会をつくろうとの声があり、飯田しずえさんを初代会長に、昭和63年設立しました。その後私が引き継ぎ、平成21年まで務めました。前回のシリ-ズにもあったように、川戸さんのお宅もよく利用させて頂いています。長く地域のお世話をして来て、今思っている事は「北屋敷」の名前を何とか残したい、語り継ぎたいことです。今住んでおられる方に「北屋敷」と言っても、知らないと答える方が殆どで、寂しい気持ちがしています。
——話は変わりますが、お父さんは駅前でお商売をされていたと伺いましたが。
【小野氏】昭和28年の豊中駅前のスケッチがあるのですが、そこに父が商売していた種苗店が描かれています。お菓子屋さんのカメヤとお寿司屋さんの正月の間にある店です。戦前、父は大阪中央市場で仲卸業をしていましたが、戦時中の物資統制や終戦直後の物価統制令などにより、青果会社に集約され、商品の調達が難しくなりました。そこで会社を辞め、駅前で種や苗を売る店を開業しました。当時は食物が大変不足していましたので、上新田、熊野田、桜井谷などの農家の方は言うに及ばず、自宅に畑を耕し野菜を作る人も多く、よく売れたと聞いています。
——前回は川戸さんの家具店、今回は小野さんの種苗店と住宅地で地域のために活動されている方が、駅前の商業の発展にも関わっておられた事に驚きました。

(小野實氏プロフィール:昭和8年生まれ 本町2丁目在住/大池地区社会福祉協議会会長/豊中稲荷神社氏子総代


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