【豊中駅前の歴史:58】「戦争を振り返る-1」(2014年8月)

今号では、8月15日の終戦記念日に因み、今の政治の在り方を考える上で、後世に語り継がなければならない戦争の体験談をエッセイ集「麦畑の記憶」西村惇子著(日本図書刊行会発行)より抜粋してお伝えします。

『麦畑の記憶』
「近畿軍管区、空襲警報発令!」、「空襲警報発令!」というアナウンサーの緊張した声が、突然ラジオから流れだしたのは、午前九時を過ぎたことろだったろうか。それは1945一九四五年(昭和二〇年)六月七日のことで、仕事が始まって間もなくの工場内は一瞬静まり返った。大阪は六月一日にも米軍機B29による空襲に見舞われ、市街地は大きな被害を受けたので、度重なる警報に私たちは緊張した。みんな一斉に、一番前列の作業台に座っておられた指導の長沢先生に注目した。するとその時、先生が「全員防空壕へ!」とこわばった顔で叫ばれたのだった。
 一九四二年のミッドウェー沖海戦で大敗して、制海権も制空権すらもすでに失っていた日本軍は、アッツ島、サイパン島、グァム島で玉砕し、ついには四五年に入ると、米軍の沖縄上陸をも許して、東京など大都会も次々とB29による激しい空爆を受けるようになったのである。
この年の四月早々に出された学徒動員令で、府立高女二年生になったばかりの私だったが、多くのクラスメイトと共に神崎川の川沿いにあった川崎航空機傘下の石産精工へ動員されていたのだった。この工場では、当時日本一高性能の戦闘機だと言われていた「紫電改」の部品を作っていた。まだ新しい工場は天井も壁も木の目も鮮やかな板張りで、床は全てコンクリート敷きになっていた。(中略)
私たちが先生の指示に従って、十数人ずつに分かれて豪へ退避すると間もなく、B29の爆音——それは地獄へ引きずり込まれるような低い不気味な「グオン、グオン、グオン」という音で、それが近づいてきたかと思う間もなく、物凄い爆音がとどろき、私たちの豪が崩れてしまうのではないかと思われるほどに激しく揺れた。私たちは恐怖のあまり、先生の指示も待たずに豪を飛び出していた。外は朦々とした土煙で前方は見えないが、あちこちの工場から火の手が上がっていた。先生が川沿いの麦畑へ避難するように指示されたため、私たちはすぐさま、工場の群から離れた所へと必死で走ったのだった。でも、B29の小編隊による執拗な攻撃は続いた。辺りは昼間なのに真っ暗になり、麦畑の畔に伏せながら見上げると、真っ暗な空からきらきらと星のように煌めきながら、焼夷弾が私たちの頭上に落ちて来るのだった。目の前の工場は火だるまになって燃え盛り、傍らの麦の束も燃え上っていて、あちこちに血まみれで倒れている人、呻いている人、「お母さん!」と叫んでいる女学生の姿が目に入ってきた。
その後は先生の指示もなく、どこへ向かうのかも解らないまま、燃え上る工場を後にして、私は数人の友達と一緒に、ただひたすら麦畑を走り続けた。(中略)
そして、何処をどう走ったのかも解らないまま、いつの間にか阪急神戸線の線路に辿り着いていたのだった。一緒にいた友達ともはぐれ、私は線路上を伝って避難する大勢の人の群にまじって歩いていた。泥だらけで、ずぶ濡れの野鼠のような格好で、ともかくも豊中の家へ辿り着いた時は、辺りはもう真っ暗な闇夜だった。家から母と姉が飛び出してきて、「あんたは、もう死んでいると思ったわ!」と私を抱きしめ、三人で泣いたのだった。(後略)


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