【豊中駅前の歴史:32】能勢街道について(2)(2011年12月)
このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
前号で能勢街道を走っていた乗合馬車と人力車について紹介したところ、昔の能勢街道についての問い合わせがありました。今号では、その一端を知っていただくために、大阪大学名誉教授「脇田 修」先生の冊子から、お話を要約してお伝えします。
【二 つ の 街 道】
豊中市の北端を、現在の国道171号と交差しながら走る「西国街道」は京都から西日本へ行く最も主要な道路でした。水路を使う場合は、淀川を下り、神崎川から西宮の方へ出るわけですが、陸路を使う場合は西国街道を通るのが普通でした。豊中地域はその街道から少し離れたところに開けた土地でした。西国街道のほか、豊中地域を通っている街道には、大阪から池田、能勢方面へ通じる道があります。「能勢街道」、「池田街道」などの名で呼ばれていました。
この能勢街道がどれくらい繁栄したかは、池田という土地柄を考えるとわかります。山地である能勢から平野へ出てくる物資の集散地、それが池田です。豊中地域の丘陵地帯で出来た様々な産物が集められた岡町も能勢街道沿いの集散地の一つでした。
【馬街道】
能勢には多田銀山がありました。豊臣時代にはものすごく繁盛した鉱山で、能勢街道はこの鉱山の連絡路でもありました。鉱石は猪名川の水路で運んでいましたが、それ以外の山のものや薪・炭を運んだと思われます。この街道は、「馬街道」とも呼ばれ、馬の背で大阪まで物資を運ぶことからついた名です。馬の背に積める荷物はというのは四十貫(約150キロ)が基準で、それ程大きいものは積めません。そのため、江戸時代の主な輸送路は水路でした。しかし、能勢から大阪までは猪名川を通って大阪湾に出て、ぐるっと回らなければならないので、軽いものは、馬の背につけて大阪まで運ぶことが多かったようです。
【大都市「大坂」を支えた能勢】
物資として一番よく運ばれたのは「薪」ではないかと思います。戦前までは、たいていの家に竈(かまど)があり薪でご飯を炊いていました。江戸時代には、ご飯だけでなく煮炊きものはすべて、薪や柴を使っていました。「大坂」のように人口何十万人規模の都市ではかなりの量が必要だったわけです。羽曳野や富田林では毎日「薪の市」が立ち、北部では、北摂山地や千里丘丘陵の薪が大坂に運ばれていたと思います。また、能勢などの炭は集散地である池田の名を取って「池田炭」と呼ばれ全国に知られていました。
【米上々の地】
大阪の北の郊外は、質の良い米がとれた土地であると、江戸時代の地誌や地理の本に書かれています。北摂地域、特に新免、麻田、熊野田などは非常に米の質が良かったそうです。近くに伊丹や池田、少し離れて西宮などの酒造地帯があり、お酒を造るための酒米に売れたのです。大阪周辺の農業は日本中でも最も進んだ農業だといわれてきました。室町時代に西国街道を通った朝鮮の使節が「この辺りは集約農業であり、三毛作だ」と書いています。おそらく野菜など色々な産物が作られていたと思います。肥料も糞尿だけでなく、菜種の油かすや千葉の九十九里浜のいわしを干したもの(干いわし)を入れていました。そういう高価な肥料を使って、なおかつ儲かるぐらいの農業をやっていたわけです。
(以下次号に続く)
——この冊子は平成6年11月15日、豊中駅前と岡町の両協議会が主催した「阪急高架(上り)開通記念講演会」~近世の大阪 そして とよなか、能勢街道 もう一つの街道を見直す~の内容を要約したものです。まちづくりセンターにてカンパ1部300円で取り扱っています。
※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。