【豊中駅前の歴史:40】住宅地の変遷 1(2012年11月)

前号では昭和10年代の豊中駅前の様子をお伝えしました。商業地として形成されていく過程はこのシリーズで多くの部分を占めています。今号では、通勤、通学、買い物や銀行に行くなど、昭和初期から現在までこの豊中駅前を支えてきた住宅地の昔の姿を紹介します。出典は「鹿島友治氏編 ふるさとの思い出 写真集(国書刊行会)」です。
〈春日橋へ下る新道〉
「昭和10年、豊中町と桜井谷村との境界、現在本町9丁目から北方を見たもの。この道が出来たのは昭和7年で、当時は広い立派な道かと思ったが、今では大型バスの出会いがやっとで、歩行者は危険にさらされている。」
〈旭丘団地の旧態〉
「戦後誕生した所謂『ダンチ』は大阪市を除く府下では、豊中市が最も多かった。中でも旭丘団地は昭和33年4月入居開始で、当時最大であった。写真左上に天竺川が流れ、その向こうに熊野田の農家があった。」
〈柴原より島熊山を望む〉
「・・・右の低い峰は『万葉集』に歌われている島熊山。この山並みを総称して千里山または東山と呼び、桜井谷六か村の入会山(いりあいやま)であった。今、開発されて住宅地となった。(緑丘)」
〈離作料の分配〉
「住宅化により、駅周辺の水田は殆どなくなり、学校用地確保のため、大池を埋め立て新設することとなった。そこで、地主側委員と小作側委員と仲裁人が立会い協議の上、離作料額を決定した。これは昭和11年新設なった克明第三小学校講堂で、その離作料支払いの光景である。当時他の小さい池はまだ残されていた。」


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