【豊中駅前の歴史:101】回想の戦争時代3(戦争を振り返る-9)(2019年2月)

「回想の戦争時代」-3
そして戦争は足早に、私たち女学生の身近にまで迫って来ました。2年生に進級したばかりの1945年(昭和20年)の4月に、私たちにも学徒動員令が発せられて、上級生の後を追うように、2年生殆どが工場へ行くことになったのです。
この学徒動員の体験をエッセー集『麦畑の記憶』に纏めました。動員で働いていた大阪北部の工場地帯が、B29による激しい焼夷弾攻撃を受け焼き尽くされた時の記憶です。それは私の人生にとって、忌まわしくも忘れ得ない体験なのです。
その昭和20年の3月に東京は、B29の焼夷弾による大空襲を受けました。そしてその後矢継ぎ早に、日本の主な大都市は、焼夷弾によって殆ど焼き尽くされました。 大阪市も幾度かの空襲で、焼け野原となりました。私の住んでいた豊中市は、豊中台地という旧い時代からの台地の上にあり、又当時は高層ビルなども無くて、空気の澄んだ夜などは、大阪の市街地が、眼窩に見えるのです。その街が、焼夷弾によって夜空を真っ赤に染めて燃えさかるのを、何度、哀しく虚しい思いで見詰めたことでしょう。また、グラマン戦闘機と云う小型飛行機が、突然、警報のないまま都会の住宅地に低空で飛来し、通行人に機銃掃射を浴びせるという事態も何度も起こるようになりました。九十九里浜、遠州灘、四国沖の太平洋上には、米軍の空母が常に停泊していて、其処から発着する戦闘機によるこの様な襲撃は、日に日に多くなりました。   当時小学校5年生だった弟も、下校途中で戦闘機の銃撃に遭い、辛くも家陰に隠れて難を逃れたこともありました。その頃の日本は制空権を失い、全くの無防備だったと云う外ありません。本土決戦と云う言葉も、大人たちの会話の中で、しばしば耳にするようになりました。母が米軍の上陸を予想した隣組の竹やり訓練に参加することも多くなり、学校は休校続き、何時また空襲警報が鳴るのではないかと怯えて、追い詰められたような気分の毎日が続いていました——————。8月6日の広島、9日の長崎と原子爆弾が続いて投下され、その新型爆弾の想像を超えた被害の惨状が伝わって来ました。加えて、8月8日にはロシヤからの対日宣戦布告を受ける事態ともなり、私達は、とても動揺しました。そして、1日も早く戦争が終わるのを、心ひそかに願っていました。
ようやく、8月15日に天皇自らが国民に対して何事かを語られるというニュースが伝えられ、私達は茶の間のラジオで、その「玉音放送」を聴いたのです。それは、1945年7月26日に、ベルリン郊外のポツダムで、トルーマン、チャーチル、スターリンの会談に基づいて発せられた対日無条件降伏勧告の宣言~『ポツダム宣言』を受託するという天皇のご決断でした。放送が終わるやいなや、一緒に聴いていた母と姉の眼から涙があふれ、その様な2人の姿を見たことが無いほど激しく泣き伏しました。でも何故か、私には涙は出ませんでした。2人のように、真剣に戦争と向き合っていなかったのかしらと、一瞬自分を責めていました。ふと見上げた茶の間の窓からは、雲一つない8月の青空が見え、青って哀しい色だなと、私はその時、そんなことを思っていました。そして、戦争から、又あの恐ろしい空襲から解放されるという安堵感が、深く心に広がっていくのを感じてもいたのです。
戦争があと数日長引けば、私の住んでいた小都市豊中も焼け野原になっていたでしょう。その日の夜、燈火管制のため部屋の電灯に被せていた黒いカバーや、窓という窓に掛けられていた真黒な重いカーテンを引き剥がしました。部屋の隅々までが明るく浮かび上がり、以前のような静かな夜が来るのだと、嬉しさ一杯の私でした。破壊され焦土となった国土と、300万人に及ぶ犠牲者を出した末に、戦争は終わったのです。その翌年(1946)の1月1日に、天皇による『人間宣言』が出され、昭和の神さまは虚構だったことが明らかになりました。私達国民は『神国日本』という呪縛から、ようやく解放されたのでした。

プロフィール/西村惇子氏 玉井町在住


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