【まちなかの散歩:72】酷暑の8月(2014年8月)

 極暑の夏休み。宮沢賢治が言う“夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだをもち、慾はなく決して怒らずいつも静かに笑っている”とは、とてもいかない。こんな時に涼をとるには“カキ氷”を食うに限る。“夏季氷”とは上手く言ったものである。だが、この美味しい氷も急いで食うと途端に頭に“キューン”とくる。 急いで食わされて頭にきたことに、今次の集団的自衛権に関する政府のやり方である。圧倒的多数の国会議員を擁する内閣が憲法の意思を解釈変更し基本方針を決めたことである。2年前の衆議院選挙で、このやり方で政治を進めると公約し争点としていたのか。これでは、まるでかつてドイツで国民主権・議会制民主主義、社会権の保障を定め世界最先端の民主的憲法のワイマール憲法を持ちながら、なし崩し的にヒトラーの台頭を許した状況に似てはいないか。
 子どもの頃、夏休みの宿題として「憲法の前文」の暗記をした。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために諸国民との協和による成果と・・・、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、・・・・・・」
 なぜ国民に憲法改正を問わずに性急に国のあり方を変えるのかと問えば、隣国からの急迫した国際緊張状況に対応するためと答えながら、実際に集団的自衛権を発動するために必要な関連の法律改正は、準備を進めて来年4月の統一地方選挙後に一挙に行うという。滋賀県知事選で原発再稼動を主張して苦杯を舐めてから選挙での争点隠しをする姑息なやり方である。民主的政治は国民・市民の意見を反映して政治を行ない、その議論の場として国会・府・市議会がある。今回も国民を前に争点を明確にして議論し、その結論の是非を選挙で国民に問い政策決定をする王道を何故に歩まないのか?
 政権毎の判断で簡単に憲法解釈の変更ができるなら、より良質な内閣が構成できる政党を選び元に戻せば良いという意見も聞くが、残念ながら我々は忘れやすく、目をそらせる操作に乗りやすい。
 五輪、サッカー、北朝鮮拉致問題で、この議論をメディアは逸らした。国会の議論を経て国民の承認を経ない変更など言語同断である。
 “押し付け民主主義”と揶揄されても、主権在民、三権分立、平和主義、国会の国権の最高性・・・と「新しい日本」の姿を学び、信じて来た戦後教育の教え子が、効率主義・金儲け至上主義の中で価値観が変質されていく悲哀を知る時、69年前の終戦直後に教科書を墨で消されて「新しい日本」を教えられた我々の先輩達のショックに今、改めて思いを馳せる。
 8月は人生の先輩・先祖を敬う盂蘭盆の月であり、被爆日であり、終戦記念日である。被害の根本的防止も最終処分地も決まらないままに再起動に向かう原発。過日、『嗚呼命』の筆者と訪問した「舞鶴引揚記念館」で見た悲惨な歴史をも我々は忘れてしまうのか?

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.133に掲載)


※まちなかの散歩のバックナンバーはこちらをご覧ください。