【豊中駅前の歴史:39】豊中駅前の変遷(2012年10月)
現在、駅前のマンション建設は目白押しで、これからも増え続けていくと予測されます。今までの駅前は、まちの玄関として生活を支え潤いをもたらす店や企業など様々な機能に溢れている“まちの中心”でした。このシリーズは、駅前を利用する私たちにとって、駅前が、もっと魅力ある活気のあるものになって欲しいとの思いを込めて、「新開地市場の誕生」を皮切りに駅前周辺の歴史を辿ってきました。豊中駅が出来、産業道路が通るに従い、店や銀行が増えていきました。戦後の混乱期を経て、阪急宝塚沿線で有数の商業地となった時期もありました。最近は景気や社会状況の変化から商業力は、かって程は無くなりましたが、周辺の住民にとっては、まちの中心です。昨今のまちの動きを考えると、放っておけばマンション住民の“エントランスと車の出入り口”ばかりの駅前になってしまうとの危機感を待たれる方々も多いはずです。今一度、駅前の変遷を辿り生活を豊かにし楽しい時間を過ごせる“駅前を再生する取り組み”を始めなければなりません。
今号も「鹿島友治氏編 ふるさとの思い出 写真集(国書刊行会)」より、昭和の初め頃の駅前の写真を紹介します。
1)産業道路(府道池田線)と呼ばれていた現国道176号線
「昭和8年に開通したこの道は市域内各電車駅より離れ東方を通っているが、豊中と蛍池だけ駅前を通っている。豊中駅前では、その南方へ、また旧豊中中学校への道に沿って商店街が出来ていった。昭和10年ごろは、だだっ広い舗装道路が不気味に続いていた。子供は道で遊び、おとなも夏は縁台をもち出して夕涼みをした。」
2)中学校道商店街と呼ばれていた現銀座商店街
「昭和初年以来、道の両側に商店が出来てきた。昭和10年ころは牛馬車のほか、中学校行き12人乗り乗合自動車が時々通るぐらいで、のんきなものであった。つき当たりは産業道路で、その右方に駅がある。大正末年では、だだっ広い道の両側に低い土堤があり、松が植わっていた。」
3)豊中駅前の出征軍人
「昭和13年7月、当時新免地区(現本町)の住人2名に召集令状が来た。氏神稲荷神社に参拝し、武運長久を祈り、行進は今、豊中駅に来たところである。町内の子供たちや梅花高女生の姿も見える。まだ出征軍人も少なく、この風景も日常的なものではなかった。」
※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。