【豊中駅前の歴史:23】本町8・9丁目 豊高へ至る道周辺(2011年3月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は丹羽整形外科の丹羽先生に本町9丁目のお住まいを訪ね、お話をお伺いしました。

——外から見るおうちと中に入らせて頂いたイメージがまるで違うのに驚きました。和風のしっとりした内装で、お茶会や和風ギャラリーといった雰囲気を感じました。いつ頃に建てられたのですか。
【丹羽氏】昭和27年に父が建てました。長く芦屋に住んでいましたが、昭和9年の「室戸台風」で家が壊滅し大変な目に遭ったことから、土地の高い所を探していたようです。建った頃は住宅も少なく、道沿いにだけ住宅が並んでいたような感じでした。建っていた住宅の中には庭園の素晴らしいお屋敷や洋風のその当時お洒落なおうちもあり、ひっそりとした住宅地でしたね。なんせ家の周りは竹薮ばかりでしたね。直ぐ下には池があり、うっそうとしていました。
——昭和40年頃に私もこの道を通っていました。箕面街道を右に曲がり、木が生い茂る稲荷神社の境内を右に見て、少し歩くと坂の途中に池があり両側にはそれぞれ趣向の凝らしたおうちが並んでいたのを憶えています。丹羽さんのお宅から先は家も疎らで畑もありました。豊高の周りにも竹薮は残っていました。
【丹羽氏】昭和30年代後半頃、私の家の横と裏に竹薮を拓いて、宮崎銀行と古河電工の社宅が建ちました。その頃から徐々に住宅が建っていきましたね。今は古河電工の社宅は戸建ての住宅に建て変わりましたが、それまでは家の中から猪名川の花火がよく見えて、きれいでした。
平成7年の阪神淡路大震災の影響でかなりの住宅が建て替わりました。1軒の大きなお屋敷が数軒の住宅に建て替わったところも幾つかあります。でもやはり閑静な住宅地で在り続けている。豊高生が大勢連れ立って通うのもそういった雰囲気があるからだろうと思います。車も少ないし、楽しそうに話をしながら歩いている学生さんを見ていると、この道こそが「豊高道」と呼んでも良いのではないかと思います。
——話は変わりますが、駅前で開業されたのはいつ頃ですか。
【丹羽氏】昭和51年です。以来豊中駅前ビルで診療しています。
——数えますと35年になりますね。その間には街も大きく変わっていったと思いますが・・・
【丹羽氏】そうですね。まず、私の診療所が入っている豊中駅前ビルの最上階には「豊山閣」という中国料理店がありました。駅前では唯一本格的な中華料理が味わえる良いお店でした。六甲山や箕面の山々、伊丹空港への離発着の飛行機の姿などが見えて、眺望を楽しみながらの食事は最高でした。「木村カメラ店」という写真屋さんもありました。大変親しくお付き合いをしていました。人文社会科学系の書籍を多く置いていた「創文堂書店」という本屋さんもありました。「赤壁薬局」は今は調剤薬局になっています。あの頃から続いているのは私の診療所と「タイム商会」という婦人服のお店だけになりました。しかし今も空きフロアーは無く、まだまだ駅前には元気があるなーと感心しています。やはり一番は阪急電車が高架になった事でしょうね。踏み切りが無くなり、アイボリーさんの前から西口の方へは大変行き来しやすくなりました。
余談ですが、「新免」と言う地名がありますね。私の家の住所も最初は「新免○○番○○」でした。この新免という地名には長い歴史があり、住み続けきた人達の想いが詰まってると思います。このような地名は大事にしなくてはならないと常々思っています。今はアイボリーさんの横にある「新免館」でしかその地名を見ることが出来ません。大変寂しい気がしています。
——今日は有り難うございました。

(丹羽 権平氏プロフィール:昭和9年生まれ 丹羽整形外科院長)


※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。