【豊中駅前の歴史:87】千里園空襲(2017年5月)

前々号掲載の「千里園の水害」の中で昭和20年6月の豊中空襲の話がありました。今号は「図説 豊中空襲」(能登宏之編・著)から体験者からの伝言の一部を紹介し、戦争被害の恐ろしさを振り返ります。

「千里園空襲」大野 高史
豊中に最大の空襲被害をもたらした日、そして私自身にとっても最大の空襲体験となった日、6月7日がやってきた。この日は朝から快晴で、真夏の陽光がまぶしい絶好の空襲日和。・・・母は、貴重品を入れた袋を肩にかけ、私たち兄妹三人に防空頭巾をかぶらせて、妹の手を引いて表に出ようとした丁度その時、突然グラマン艦載機が一機こちらへ向かって、けたたましいエンジン音を轟かせて、機銃掃射しながら急降下してきた。・・・表玄関から出ようとしていた母は、恐怖で立ちすくんでしまった。艦載機はすぐに機首を立て直し、反転しては、何度もバリバリッと機銃掃射を繰り返す。・・・母は奥の座敷のほうへ私たちを連れて行き、押入れの中に避難しようとした。そこへ子ども一人連れた隣家の奥さんが、玄関から飛び込んできた。・・・外へ出た途端に、この銃撃に出くわして逃げ場を失い、とっさに飛び込んできたらしい。・・・
隣家の二人と合わせて六人が、どうにか押入れの下段に身体を滑り込ませて一息つく間もなく、今度はいよいよB29による爆撃が始まった。聞き慣れたローピッチのエンジン音に続いて、遠くの方でズシン、ズシンと爆弾の破裂する音が聞こえてくる。そして、爆撃音が徐々に近づいてきた、・・・と息をつめた瞬間、たて続けに2発、直ぐ近くで爆発した。耳をつんざく破裂音と全身が浮き上がるような衝撃、家全体が前後左右に激しく揺すぶられる振動。この押入れのある座敷の畳の上一面に、ザァ——ッと音をたてて天井から落ちてくる土砂や屋根瓦、それに息も出来ない真っ白な砂ぼこり・・・。子供心にも恐怖というよりも、「これで死ぬのかな。・・・」、という思いが一瞬、頭の中を走り抜けたような記憶がある。空襲は、実際は10分足らずの時間であったかも知れないが、とても長く感じられた。・・・そのうちに、玄関口の方から「大丈夫ですか」安否を尋ねる近所の人たちの声が聞こえてきたので、全員押入れから這い出てみると、一面の惨状に声も出ないほどショックを受けて、呆然と立ち尽くした。平屋建ての我が家全体に、屋根だけが完全に抜け落ちてしまって、青空と太陽が目に入る。どの部屋も、廊下も、一面に抜け落ちた屋根の土砂と瓦で埋まっている。柱だけは殆どそのまま残っているので「倒壊」ではない。・・至近弾の強烈な爆風と衝撃によって生じた破壊現象なのだ。お互いの無事を喜びながら外へ出てみると、狭い通り一面はガレキの山で、歩くのも難しい。近所一帯は、軒並み屋根が落ちてしまっている。・・・
近所の人たちの話し声を聞くと、ひと筋北側の千里川に沿って、1トン爆弾が2発落ちたらしい。私たちの家から、直線距離で100~200メートルのところである。怖いもの見たさに兄と二人で見に行くと、堤防の一部にかけて直径20~30メートル、深さ5~10メートルほどの大きな穴が一つ。川向こうにも一つ空いている。まるで水抜きをした大きな池の跡のようである。この爆弾の落ちた跡を見ていると、ほんの僅かの距離で、自分たちの家が直撃を免れたのは、まさに奇跡というしかない。紙一重の差で生と死を分けた、この時の体験が私の人生観の根底に大きな影を落として、それ以降の人生の節目ごとに顔を出す事になる。


※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。