【豊中駅前の歴史:85】千里園の水害(2017年3月)

今号は箕面街道沿い千里園1丁目にお住まいの岸本さんにお話をお伺いしました。

——岸本さんは千里園にいつからお住まいですか?
岸本氏:昭和44年に岡上の町から移ってきました。その頃は家の裏側の刀根山1丁目辺りは田圃ばかりでした。長くからお住まいのご近所の方から、昭和20年6月の豊中空襲でこの辺りも大変な被害に遭ったと聞いています。爆弾が落ちたお家は跡形もなく、遺体の一部が木の枝にぶら下がっていた、その爆風で隣近所の家も倒れたり、屋根が吹っ飛ばされたりして、多くの命と家が失われたそうです。最近まで1トン爆弾が落され、跡が池になって残っていました。私たちが引っ越してきた頃はこの辺りは戦後に建て替えられお家が殆どでしたが、戦災を免れたお家もいくつかあり、私たちの家もその一軒でした。昭和の初めごろに建てられた懐かしい趣のある家でした。今は鉄筋のマンションに建て替えましたが、戦前のお家も戦後に建てられたお家もどんどんと建て替わっていますね。
——越してこられたのが昭和44年であれば、北摂豪雨の2年後ですね。(※)
岸本氏:昭和42年の北摂大豪雨の後、千里川の改修工事や下水道の改修工事により、水害の心配が無いと聞き安心していましたが、その後に何回かの集中豪雨があり、その度に被害を受けました。マンションに建て替えてから数年後の平成11年の集中豪雨の時は特に酷かったです。近所の多くのお家では床上浸水に遭い、地下の駐車場が天井まで水に漬かってしまったお家もありました。
——伊丹空港が水に漬かって大変だった時ですね。
岸本氏:この豪雨の後、ご近所など周りの住民が、豊中市へ水害に遭わないまちづくりを求めて署名活動を行いました。署名は予想を超え数多く集まりました。その甲斐あって、南蛍池1丁目に「千里園ポンプ場」が設置され、蛍池の下「刀根山郵便局」辺りから千里川まで大きな排水溝に取り換える工事が行われました。これ以降に水害に遭ったことはありません。水害は本当に恐ろしいものです。そのためには日頃のまちの手入れが大切と考え、女性中心の「千里園ボランティア」と男性だけの「メンバーズ委員会」では毎月定期的に千里川の土手や公園、溝の掃除をしています。日頃は近所付合いの無い男性には地域のコミュニケーションが図れる良い機会と考えています。
——今日は有難うございました。

プロフィール/岸本 義光 氏 昭和8年生まれ 千里園1丁目在住

(※)2016年9月中旬号:シリーズ第80回「北摂豪雨の記憶」に掲載しています。


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