【豊中駅前の歴史:80】北摂豪雨の記憶(2016年9月)
今号では集中豪雨の恐ろしさを振り返ります。北摂豪雨で被害を受けた藤原さんにお話しを伺いました。
——あの日は大変な雨でしたね。
藤原氏:昭和42年7月9日、わたしは高校2年生でした。当時の家は2階建てで、1階には兄の部屋があり兄は不在でしたので、私が慌てて大切なものを2階に移そうとしていると、水は瞬く間に床下まで押し寄せ、畳が浮いてきて、あっという間に水没しました。2階に避難するのがやっとでした。
——記録によりますと、「1日で225mm、16時から6時間までの雨量は187mm。1時間あたり50mmに達したとあります。
藤原氏:2階から外を見ると、洗濯機や箪笥など家財道具がどんどん流されて来るのが見えました。私の家は蛍池からの道と千里川との間にあり、国道176号に面していますので、上から濁流が私の家へ押し寄せて来るのです。当時あった疎水は千里川からの水が逆流して溢れていました。降り続く雨水が刀根山から流れて来る、そして蛍池の水門を開いたのではないかと思えるほどの濁流でした。どこまで水が押し寄せて来るのか大変不安でした。水はやっと夜中には引きました。
後で知ったのですが、箕輪町など数箇所で千里川が決壊して、水はそちらの方へ流れて行ったのですね。翌朝、1階に降りてみると、家の前には流されてきた色んな物で溢れかえっていました。
——この豪雨がきっかけとなって、千里川の改修工事が始まるのですね。
藤原氏:改修工事により遊歩道を作るために土地を提供しました。また、川の改修工事に伴い国道176号の工事も始まり、前の土地は工事期間中、仮の道路になりました。川の土手の上に国道に面していた2階建ての家が、現在のように後ろに下がり、遊歩道に面した3階建てに替わったわけです。
でも、その後も何度か1階は水に浸かることがありました。千里川の水位が上がると、注意報はビートルズの「イエスタディ」が流れ警報はサイレンです。その度にドキッとします。日頃の準備はしていますが、いざという時にはどうすれば良いのか、市の情報を上手く活用できるのか問合せに行くことも大事ですが、市の方も現地に来て、住民に説明したり、一緒に考える事も必要だと思います。
——今日は有難うございました。
プロフィール/藤原 良一氏 千里園1丁目在住
この年の7月は、梅雨の長雨に続いて台風7号が到来。8日、9日の2日間にわたって断続的に大雨が降り続きました。9日夕方から夜にかけて庄内地区では、下水道や水路から水が溢れ出し、東側の天竺川でも水が溢れました。豊南町地区などでは床上浸水の被害が出ました。一方、千里川は玉井町付近で左岸が約500メートルにわたり決壊したほか、10か所で堤防が削り取られ、蛍池南町や桜の町では共同墓地や家屋が流失。走井、箕輪、千里園などでは、溢れた水が家屋の軒下にまで達した。
この豪雨により市内では、家屋の全壊・流失25戸、半壊41戸、床上浸水4千308戸、床下浸水1万9千932戸。重軽傷者は176人と水害は大きなつめあとを残しました。
2002年7月広報「とよなか」より
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