【豊中駅前の歴史:81】昭和39年の豊中駅前(2016年10月)
昭和39年といえば東京オリンピックが開催された年です。東海道新幹線の開業、コンピューターの登場、ビデオテープレコーダーの新発売、また少年サンデーに「オバケのQ太郎」の連載が始まり、平凡パンチが発刊された年でもあります。今号では当時の写真を見ながら豊中駅前を振り返ります。
写真1*は東口です。豊中駅前に人工広場が出来る前の写真です。国道176号を走る車は疎らで、横断歩道にはゾーンマークもありません。車社会の到来は未だまだの感じです。「住友銀行」の看板が左手前に写っています。また正面の上方には「池田銀行」の看板が西側に見えます。右側の「東豊中高」と途中までしか写っていない看板は、推測ですが、「東豊中高級住宅地販売中」のようなものではないかと想います。この頃から東豊中や緑丘の住宅地が形成されていったのでしょう。駅の構内は地下道で東西を行き来していました。梅田方面から帰ってきた乗客は地下道を潜って東側へ出ました。改札口の前にはタクシーはありますが、バスの姿がありません。
写真2*は西口でキャプションには、「豊中駅前バス停付近(昭和40年)を行く「国民安全の日」のパレード『地上駅だった豊中駅の西側』」とあります。当時は西口にバスターミナルがあったようです。昭和44年に人工広場が完成し、その下にバスターミナルが整備されるままでは、西口がその役割をしていたわけです。
写真3*は現在のスクランブル交差点の昭和30年代の写真です。路面にはスクランブルのゾーンマークはありません。昭和43年12月に新開地ビル(現:マストメゾン)が建ち、翌年には人工広場が完成し、銀座通りと刀根山商店街(現:一番街)が歩道橋で結ばれ、バスターミナルが整備されます。箕面街道と豊高道との交差点にスクランブルのゾーンマークが引かれるのもこの頃です。豊中駅前が車社会の到来を受け、車を迎え入れる街に大きく変わろうとするほんの数年前がこの年です。
※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。