【豊中駅前の歴史:63】「豊中の伝説と昔話」より(2015年2月)

良好な住宅都市、文教都市といわれる現在の豊中市の誕生の基となったのは梅田駅と宝塚駅を結ぶ“箕面有馬電気軌道(現:阪急電車)”の開通であったことは、本シリーズでも度々お伝えしました。今号では鹿島先生の「豊中の伝統と昔話」からその当時のエピソードを紹介します。

「電車、電燈がはじめてついた」
明治四十三年(一九一〇年)三月十日、電気で走る車が出来たといって大騒ぎでした。はじめて走る日、村中総出で見物に出ました。チンチン電車で、四十名も乗れば満員で、五十名だと身動きも出来なかったと思います。運転台は一段低く、前の方には線路をはくような大きな大きな輪網が降ろされて、軌道に人がおればひき殺されないようにしてありました。大きな輪のハンドルブレーキを運転士がまわすと、車輪から火花が飛び散って、「ワァー」と、見物人は一斉に逃げました。速力はおとなが走るより少し速いように思われました。えらいものが出来たと、皆は不思議がったり、驚いたりで電車の話でもちきりでした。(小谷栄一・蛍池小学校百周年記念誌)
 明治何年でしたか、梅田のステーションに電燈がつきました。その明るいことは真昼のようでした。なんとえらいものができたことよ、といって、若い衆は夕方仕事を終えてから梅田まで走って、よく見物に行ったものです。電燈の下では落ちている米つぶまで見えたといって、大評判でした。(熊野町・田中弥三郎ほか 田村礼子 聞書)

「点灯の仕方はわからない」
わたしが子どものころの話です。それは阪急電車が開通した翌年ぐらいのことと思うので、明治四十四年(一九一一年)のことと思います。柴原村にもはじめて電燈がつくこととなりました。しかし皆はもったいないといって誰も電燈をとりませんでした。ただお菓子屋をひらいているお婆さんの家が一軒だけ電燈をつけました。何と明るいものだといって、村の者は入れ代わり、たち代わり見せてもらいに来ました。ある晩、一人の若い衆が見せてもらいに来て、やはり感心しながら電燈のソケットのところをさわっていましたが、どうしたことか偶然にスイッチに手が触れて、パチンといって電燈は消えて真っ暗になりました。
さあ大変、男もお婆さんも点燈の仕方は知りません。お婆さんはおこるし、男はうろうろするし、わいわい騒ぐ声に近所の人もやってきて、これはやはり電燈会社の人にきてもらうより方法がないということになりました。会社からやって来た人は事情を聞いて、これはこうしたらよいと、スイッチをパチンとひねると、またパッと電燈はつきました。皆は唖然とするやら、感心するやらでした。(柴原町四丁目 花岡宇一)

プロフィール:鹿島 友冶(かしま ともじ)氏/豊中市春日町に生まれる。小学校教員を40年勤務後、昭和46年3月退職。豊中市文化財保護委員、大阪府文化財愛護推進委員、保護司などを歴任


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