【豊中駅前の歴史:44】住宅地の変遷 5(2013年4月)

今号は、西口の豊中連合自治会会長の中右さんにお話をお伺いしました。

——2年前(121314号)の取材ではお世話になりました。
中右氏:豊中駅が開設されて今年で100年の記念すべき年です。箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)は大正2年(1913年)に集客策として「豊中グランド」を同時に開設し、翌年から月賦で豊中住宅の分譲を始めました。「豊中倶楽部」は電鉄が提供した郊外生活のコミュニティ施設です。連合自治会はこの「豊中クラブ自治会館」の建て替えを記念事業にしようと検討しています。
——本シリーズ12回「自治クラブ」では、会館について大変興味深いお話がありました。明治の終わりごろに建てられたとすれば、もう100年以上にもなりますね。
中右氏:明治43年(1910年)に開通した通称「箕面電車」の終着駅「箕面」の駅前に開業した「カフェ・パウリスタ」が1年で廃業した建物を「豊中倶楽部」として移築したことは間違いないようです。建物は豊中空襲の爆弾投下、阪神淡路大震災にも耐え、修復を重ねてきましたが、会館は老朽化が著しく使用し続けるには限界がきています。豊中市と保存の検討をしてきましたが、保存よりも新築の方が費用が安くつくことがわかりました。
——会館はどうするのですか。
中右氏:目下、事業用定期借地方式の提案を検討しています。内容は1階には物販、2階は「豊中クラブ自治会館」として存続します。会議室・趣味の教室などの活用を連合自治会で管理運営していきます。後世にも負担が掛からないようにしたいと考えています。
——連合自治会について教えてください。
中右氏:戦前の「豊中聯合町内会」区域の玉井町1~4丁目、末広町・2丁目、立花町1・3丁目に8単位自治会が連帯して昭和62年(1987年)に発足しました。阪急の連立高架事業への対応やメモリアルパークの設置、久保公園の整備などの協力から、不法駐車や工事車両の往来などの交通問題、高齢化や登校路の安全対策などを校区の社会福祉協議会、公民館、防犯協議会と連携し、地域全体に関わる諸問題を解決してきました。
——設立から今年で26年目になりますが、その歴史は長いものですね。
中右氏:大正3年住宅分譲が始まった頃は、地域には日常の食料、日用品の購入は岡町に行くしかなかったようです。追々、駅周辺に各種の店舗や医院が開業しました。本シリーズ14回でお話したように、大正6年に70余軒で「豊中自治会」が組織されました。大正12年豊中村の区設置規定の改正で「新免区」から独立して「豊中区」となります。当時の区の議事録によると専任書記がおられて、区費を所得割りで徴収していたそうです。昭和2年に豊中町となり、11年に「豊中市」となります。13年に「豊中区」が解散され、15年に9町内会、780戸、3900余人で「豊中聯合町内会」が設立されます。戦時中豊中倶楽部では連夜隣組など常会が行われる中、19年に「豊中聯合町内会」が当時の社名「京阪神急行電鉄(株)」から土地と建物を買い入れました。資金は区費の積立金です。戦後、町内会は廃止されましたが、旧聯合町内会の役員が「豊中倶楽部運営委員会」を組織して管理運営にあたりました。54年に法人格として「(有)豊中クラブ」を設立し、私も新しく参加しました。59年には豊中市より「豊中クラブ」を自治会館と認定されました。そして今日に至っています。
——長い地域の結束力の歴史ですね。駅が高架になり西側と東側の行き来は便利になりましたか。
中右氏:それは便利になりました。私が小さい頃は通る電車も少なかったので、線路を渡ってよく遊びにいきました。踏み切りを渡ると真ん前に市場がありました。
——次回はそのお話をお伺いしたいと思います。今日は有難うございました。

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