【豊中駅前の歴史:31】能勢街道について(2011年11月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。

本町3丁目自治会・会長の辻本さんの奥様から興味深い資料を見せて頂きました。かなり以前に同窓会において、恩師の豊中の郷土史の編纂で著名な「鹿島友治」先生が配られた「明治期における 桜塚発能勢街道の交通機関」と題する小冊子です。能勢街道は、大阪市北区中津から池田市を経て妙見山の無漏山真如寺(能勢妙見宮)に至る旧街道です。豊中駅周辺では、原田神社鳥居から良本酒店、伊丹街道を渡り、旧市民病院裏からりそな銀行前、一番街・刀根山道、千里川橋を渡り、待兼山へ続く道です。今号は紙面の関係上、その内容を要約してお伝えします。
近世にはいって、大阪の発展に伴い、池田、能勢地域の産物を大阪に運ぶ交通路として、豊中を縦断する能勢街道が勢いづく。馬車、人力車は1880年頃よりこの街道に現れ、当時の交通機関として活躍した。
【乗合馬車】
営業乗合馬車は横浜、箱根間に開通した。豊中では1896頃に能勢街道の今も残る原田神社南鳥居前で中井伊ノ吉という人が営業していた。馬車は原田神社より北野(現在の阪急梅田駅の北辺り)、その後十三橋北詰までを往復していた。通常1日往復であったが4月中は熊野田、新免でその頃名産の筍(たけのこ)市場が開かれたので、大阪福島辺りの筍仲買人を乗せ1日2往復した。秋には今日の貸し切りバスの如く、熊野田、桜井谷方面への松茸狩りの客に応じて、臨時の馬車を出したり、婚礼にも馬車を出した。当時の馬車は1頭引きで、乗客定員は5名となっていた。1910年の阪急電車の開通を機に、池田駅から能勢妙見方面での営業移り、乗合自動車出現前まで続いた。
【人力車】
人力車は1870年、東京府下で使用が始まり、3年後には全国で3万4千余輌に達し、外国にも輸出され、日本のリキシャとして親しまれた。豊中では1880年頃には営業されていた。原田神社の北鳥居のすぐ内側に小屋があり、能勢街道に沿って桜塚―今の半鐘台の前から上の町―阪上小三郎氏宅前、新免―今のバス乗り場より少し南方など、諸所に帳場があり営業していた。主に大阪と池田方面を往復していた。大阪方面ではお初天神までが片道8銭、池田までが片道5銭であった。池田方面では、当時この街道がまだ刀根山越えであったため、このあたりの坂道に困難した。車夫は大抵貧農で、田1、2段の小作をしつつ車を引いていた。箕面有馬電気軌道(阪急電鉄)の開通により、街道交通機関としての役割を失い、現在の駅前タクシーの性格に転向した。運賃は駅付近で50銭、熊野田まで1円20銭、上新田まで2円であった。その後、岡町西方に住宅が開発されると、大変忙しくなったと謂われている。大正の末期頃に阪急直営のタクシーが駅前に設置され、その役割を終えることになる。
「明治期における 桜塚発 能勢街道の交通機関 馬車、人力車」
1953年3月記 鹿島友治より

——貴重な飼料を提供して頂いた辻本万紀子様には御礼を申し上げます。ありがとうございました。


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