【豊中駅前の歴史:55】「まち歩きマップ」設置(2014年4月)

豊中駅人工広場に設置され「まち歩きマップ」が4月15日に披露されました。今号ではこの「まち歩きマップ」に描かれている「豊中高校」と「梅花学園」の大正時代の姿を鹿島友治氏編「ふるさとの思い出 写真集」(国書刊行会)より紹介します。

「旧豊中中学校校舎は大正十一年に竣工したが、総鉄筋建築ではなかったため、危険校舎となり数年前写真左方に校地を拡張して改築された。大正10年より北大阪土地会社が、この一帯を住宅開発したが、なかなか住宅は出来ず、大正十三年撮影のこのころも、まだまだ一面ぼうぼうたるすずき原のままであった。」
「明治10年大阪でただ二つの梅本教会と浪花公会の名にちなんで梅花女学校と命名し、キリスト教主義による女学校が創設された。大正十五年郊外高そうの地、豊中の上野に移転してきた。校舎二階から北方を見ると、すすき原のかなたに、箕面、六甲の山なみが見渡された。校歌にいう。「箕面山脈匂ひつつ、麦生にうるむ春の色、豊中の原水澄みて、芒に光る秋の色」
「大正10年、府立豊中中学が開校し、同15年その南近くに私立梅花高女が移転してきた。そこで両校話合いの末、通学路は学校に向かって左は中学生、右は女学生が歩くこととなった。当時朝日新聞記事に「南側は梅花女学生の華やかに赤い流れ、北川は豊中中学生の力強い真っ黒な流れ、そしてこの間正確に五間(9メートル)の空間が残されております。(中略)中学生たちただ黙って行く」とある。


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