【豊中駅前の歴史:51】豊中稲荷神社(2013年11月)
今回は稲荷神社の宮司樋口和彦さんからお話をお伺いしました。
——毎年10月の秋祭りにはそれぞれの氏子の区域から太鼓やだんじりが宮入りし、境内は大変賑わいますね。
樋口氏:氏子の区域は旧豊島郡新免村。現在の本町、岡上の町、玉井町、末広町、立花町、宝山町の6町です。「豊島郡新免村」は明治22年に、近在の南轟木村、山ノ上村、桜塚村、岡町村の4つの村と合併し豊中村となるのですが、ご存知の通り大正2年に阪急電車の豊中駅が出来るまでは、この辺りはほとんどが田畑でした。それで五穀豊穣を願う稲荷神社が昔からあったわけです。
——どのような神様が祀られているのです。
樋口氏:主神は「宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)」で「お稲荷さま」です。「うか」とは穀物や食物を意味します。日本人の主食であるコメをつかさどる神様です。昔の人は一粒の米が秋になると沢山の実を付ける稲穂に成長することに神秘を感じ、その生命力は神様のお蔭だとの信仰心を持ったのではないか思います。
——神社暦を拝見しますと、あらゆる生命に必要な太陽を象徴する日の神「天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)」と並んで「月読命(つきよみのみこと)」が祀られているとありますが、どんな神様ですか。
樋口氏:「月読命(つきよみのみこと)」は月の神です。女性の守護神でもあり安産を祈願する妊婦さんがよくお参りされます。日の神「天照皇大神」と陰・陽の対を成す神様です。
——私が子供のころは「宮山神社」と呼んでいましたが。
樋口氏:昔の住所が「新免村大字宮山」であったと聞いています。お宮さんのある小高い山(丘)の地形からその名が付いたのだろうと思います。この宮山丘陵は新免宮山古墳群があり、古代より祭祀が広く行われた場所であったようです。幼稚園にはまだその名が残っています。
——以前このシリーズで金禅寺のご住職から、この辺り一帯が金寺(かなでら)の寺領であったことをお聞きしましたが。(注:第37回 平成24年8月中旬号 原稿「金禅寺」 本町5丁目周辺」)
樋口氏:飛鳥時代後期に行基によって建立された金寺の鎮守社として創建されたと社伝にあります。「天正六年(1578年)に、織田信長は伊丹城主荒木村重を攻略する際、高山右近に命じ神社仏閣を問わず近郷ことごとく焼き払い、当神社もその災厄に会った」と謂われています。その後江戸時代に再建されます。「慶安4年(1651年)社殿を再建し神璽を奉安する」と書いた棟札が保管されています。
——この辺り一帯は上総国飯野藩主保科家の所領であったとのお話も聞きましたが。
樋口氏:保科家は代々大阪城の警護などにあたる「大坂定番」を務める大名でした。歴史書には「慶安元年(1648年)6月26日、7000石を領していた保科正貞は大坂定番となって摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として諸侯に列し、ここに飯野藩を立藩した」とあります。保科家から当神社に「牡丹餅(ぼたもち)」が供えられたとの記録があります。この辺りはその所領だったのでしょう。
——「慶安4年」は「由比正雪の乱」があった年ですね。この続きは次回にお伺いしたいと思います。今日は有難うございました。
※プロフィール:樋口 和彦氏/昭和37年(1962年)生 豊中稲荷宮司
※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。