【豊中駅前の歴史:53】ホテルアイボリー前の道(2014年2月)

今回はホテルアイボリー前の道(けやき通り)沿いにある「上野治療院」の上野さんにお話をお伺いしました。

——いつ頃に開業されたのですか。
樋口氏:私の父が昭和8年に玉井町で開業しました。その辺りは「豊中グランド」」の赤煉瓦の塀が残っていたと聞いています。開業間もなく、駅の東側に移りました。
——どの辺りですか。
樋口氏:今のボゼムビルと三菱東京UFJ銀行の間を入ったところ辺りです。その頃は荒物屋さんや肉屋さんなど色々なお店が並んでいました。そのお店の間には中へ通じる細い道があり、道沿いには10軒ほどの家が軒を並べていました。その一角で開業していました。
 今は道はありませんが、その頃一番街と並行して「東新地市場」と呼んでいたお店や飲食店が並ぶ通りがあり、その道につながっていました。小さい頃、新開地市場の前にあった三角地帯で火事があり、現在は進学塾になっている福山の水道屋さんに避難したことを覚えています。私が高校生になるまでそこに居ました。
——偶然にも現在はその隣で開業されていますね。
樋口氏:ここに移って来たのが昭和36、7年頃です。刀根山道(現:一番街)の東角は牛乳屋さんで東新地の路地を挟んで、お向かいが上田さん。最近文房具店を辞められましたが、その前は「石切り神社」の神職が住んでいました。路地には祠があり、よくご祈祷を上げていました。その隣は山西さんのお屋敷があり今は駐車場になっていますが、土蔵だけは残っていますね。向かい側は今は新免館になっていますがその頃は住宅でした。そしてもう一軒別の山西さんの大きなお屋敷がありました。正面に「長屋門」があり外からは木製の立派な駕籠が吊るしてあるのが見えていました。その頃は大変静かな通りでした。
——ホテルアイボリーが建って大きく変わるわけですね。
樋口氏:そうですね。昭和42年だと思います。その頃にはまだ珍しかったスーパーマーケットも一緒にでき、格段に人通りが良くなりました。その頃は「シロ」と言う名前でしたが、数年後に「ジャスコ」に変わりましたね。近畿大阪銀行も以前はもう少し蛍池寄りにありました。そして平成12年には豊中駅が高架になり、こちら側にも改札口が出来て、より一層通る人が増えました。
——今は工事の真っ最中で人の流れも少なくなっていますが、工事が完成しダイエーが再開されると人通りも良くなりますね。今日は有難うございました。

※プロフィール:上野勘二氏 昭和18年生まれ 「上野治療院」院長


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