【豊中駅前の歴史:46】住宅地の変遷 7(2013年6月)

今号は引き続き、豊中連合自治会会長の中右さんにお話をお伺いしました。

——今日は、戦前の東口の様子をお聞きしたいと思います。
中右氏:阪急電車が高架化されるまで「市場踏切」という名称が残っていました。これは常盤通りの先端から踏切番が開閉する踏切を東に渡るとすぐ両側に商店が並ぶ「豊中市場」があったからです。東屋食料店、ツジヤ商店、豊月軒、入江商店、おぼこ屋、桃井時計店、藤の家と軒を並べていました。今は旧さくら銀行などがある一角になっています。
——以前、その辺りは戦時下の強制疎開で取り壊されたと聞いていますが。
中右氏:豊中市場の対面の北側一帯と南側の豊月軒を基点とした線路沿いで、現在は岡町・曽根に至る阪急東側線になっています。北側には東荒物店、ヒツジヤ、三田屋肉店、八百松、植村商店、川本商店、末広屋と並び、角に大阪屋本店がありました。産業道路(現国道176号)沿いに駅に向かって、二葉屋書店、甲南漬豊中店、池田実用銀行が並び、その奥には貨物の引き込み線があり、朝晩に貨物車が運行されていました。今は道路やバスターミナルの一部となっています。その横には交番所やバスの発着場があり、豊中駅の東口の改札口、隣は阪急百貨店配達所になっていました。その改札口一帯は今は「三井住友信託銀行」のある阪急電鉄のビルになっています。
——そんなに沢山のお店が並んでいたとは驚きました。お聞きしたお店の名前の中で、今も営業されているお店もありますね。
中右氏:産業道路を挟んで両側にもたくさんのお店が並んでいました。今マストメゾンになっている旧新開地ビル周辺は戦前は広い空き地で、よく“サーカス”が常打ちされていました。今の銀座通り商店街は、その当時から豊中のメイン通りで、駅の角が岡本精肉店、カメヤ食料店、二鶴すし、もりしげ写真館、丸正の雑貨店などが並んでいました。今は「ボゼム豊中」になっています。戦前からあった「阪急豊中市場」(現チェリオビル)のかしわ屋さんは御用聞きが来ていました。かしわ屋のにいちゃんが“かしわ”と卵を包んだ風呂敷を背中に斜めタスキにして、自転車で家に持って来てくれていました。走井のお百姓さんが朝採り野菜を荷車を引いて売りにも来ていました。今の東京三菱銀行のある産業通りにも商店が立ち並んでいますが、一つ裏通りに山崎屋という模型飛行機の材料屋さんがあり、小学校へ行くようになってからよく通ったものです。いかにバランスよく、滞空時間を保てるかを友達と競い合った楽しい思い出がありますね。
——いろいろな思い出がおありでしょうね。
中右氏:グリコや森永キャラメルを何銭かで買ったお菓子屋さん。今の田辺理容店の辺りにあった一銭菓子屋さん。旧新開地ビルの辺りにあった横尾の散髪屋さんは散髪嫌いで無理矢理顔を押さえられてバリカンをあてられた記憶があり、そこの親父さんと奥さんの顔は今でも焼き付いていますね。
——今日はありがとうございました。


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