【豊中駅前の歴史:45】住宅地の変遷 6(2013年5月)
今号は引き続き、豊中連合自治会会長の中右さんにお話をお伺いしました。
——今日は、中右さんの小さい頃のお話をお聞きし、戦前のまちを振り返ってみたいと思います。
中右氏:中右氏:私の住まいは旧常盤通り1丁目で、今はエトレ豊中と広くなった南吉野線になっています。大正時代に大阪の野崎町から祖父が移り住み、昭和元年に両親が結婚して同居していました。大阪府豊能郡豊中村字新免176番地が最初の住居表示で、市制になり豊中常盤通り1丁目12番地になり、町名変更で玉井町1丁目1番21号になっています。私の生まれた昭和8年は「産業道路」(現国道176号)が開通した年です。物心がつき、世の中がまだ穏やかな時代から第二次世界大戦の激動を経て終戦の翌年に小学校を卒業しました。
——その頃の思い出は
中右氏:当時、近所には大勢の友達がいました。それに格好の遊び場が駅前の一等地にありました。「銀行の跡」」とみんなが呼んでいた鬱蒼とした森とテニスコート跡があり、周囲に大きな銀杏の大木が並んでいました。真ん中には松の木が並び、北に玉井通りの旧の杉本写真館が見えていました。駅方向の丘の上には、大きな樹木がある古い大きな建物がありました。不審火にあい放置された第十五銀行の寮の跡だと聞いていました。夏は蝉の幼虫を小さな穴を見つけては掘り出したり、木登りに絶好なモミジの大木があり、枯れ枝が折れ落下し気絶したこともありました。私は“トンボつり”が上手くて、近所の幼児がよく貰いに来ました。やがてこの空地は食料不足を補う畑となり、“トンボつり”が出来なくなりました。夕焼けを見るとその頃を思い出します。今はこの地は「エトレ豊中」の中心部になっています。
——ご自宅の周りは
中右氏:お隣が熊沢産婦人科、その北隣が回生病院、道を隔てて三和兄弟食料品店、駅に向かって鈴木の洋食屋、久保田牧場営業所、本庄商会、路地を挟んで松宮美髪店、赤松肉店、通りを西に入ると永木畳店、片山荒物店、裁縫工場、印刷工場、豊中電気工業所、阪急看護婦会と並んでいました。これらの大半は、戦後北摂地域一体の住宅開発で電車の乗客が急増し、豊中駅のホームも南に一輌分、また一輌分と延長される毎にカーブがきついホームなので、道路の拡幅と相まって商店が立ち退き、今は連立立体交差事業の敷地になっています。
——駅の西北辺りは
中右氏:先ほどの鬱蒼とした小高い森があり、線路に沿った「北通り」には鈴木耳鼻科、ソノ歯科、森山医院などお医者さんの多い通りでした。北通りの角から豊中第一踏切(現在の駅の北側入り口付近)に向かって長谷川のパン屋、うどん屋の吉田屋、長沢時計店、その向かい側に津田さんの大きな八百屋とたばこ店、三都屋の菓子店、河合洋服店、人力車の車夫の詰め所があり、西口の改札口になっていました。北通りの線路側は全て終戦間際に強制疎開で立ち退きとなり、現在は阪急電鉄(株)の敷地になっています。
——駅の西北辺りは
中右氏:先ほどの鬱蒼とした小高い森があり、線路に沿った「北通り」には鈴木耳鼻科、ソノ歯科、森山医院などお医者さんの多い通りでした。北通りの角から豊中第一踏切(現在の駅の北側入り口付近)に向かって長谷川のパン屋、うどん屋の吉田屋、長沢時計店、その向かい側に津田さんの大きな八百屋とたばこ店、三都屋の菓子店、河合洋服店、人力車の車夫の詰め所があり、西口の改札口になっていました。北通りの線路側は全て終戦間際に強制疎開で立ち退きとなり、現在は阪急電鉄(株)の敷地になっています。
——本通り(桜通り)は
中右氏:南角から豊中赤壁薬局、ミヤコ呉服店、交響社、カフェースター、富田美髪店などが並んでいました。駄菓子屋もあったように思います。向かい側には豊中阪急電灯営業所があり、その隣が前回お話しした「豊中倶楽部」がありました。秋の稲荷神社の例祭に、轟木の大きな「ふとん太鼓」が線路の西側を北に進み、西口の商店街を経て、踏切を渡り宮参りをしていましたが、道路が狭く電柱もあり大変難儀していたことを覚えています。
——次回は駅の東側のことを教えてください。今日はありがとうございました。
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