【豊中駅前の歴史:13】豊中グラウンド(2010年4月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回も前回に引き続き、豊中連合自治会会長の中右さんにお話をお伺いしました。

——この2月に「豊中グランド」の事が新聞に載っていましたが、高校野球とラグビーの発祥地とは知っていましたが、サッカーまでもとは驚きました。
【中右氏】箕面有馬電気軌道(株)は、社名の通り、“箕面の滝”“有馬温泉”や北摂の歴史的な寺院仏閣のある集落をつなぐ“遊覧電車の経営”と風光絶景の沿線の“住宅地経営”を目的に開業しましたが、もう一つの乗客の誘致策として、“スポーツ振興”に目をつけて、豊中には運動場を設置しました、その運営を新聞社や運動具店に協力を求め、野球だけでなくあらゆるスポーツが行われるように構想していたようですね。
——大正2年(1913)に豊中駅と同じ年に設置されていますね。
【中右氏】駅が開設されるや、早速、関西の中学校を集めた「関西学生聨合野球大会」やワシントン大学を招聘して、明治大学・早稲田大学が対戦した「日米大野球戦」、それに「日本オリンピック」などが次々に開催された事が同社のPR誌「山容水態」に記載されています。
特に人気の高かった中等学校野球大会は、2年後の大正4年に朝日新聞社主催「全国中等学校優勝野球大会」(現;全国高等学校野球大会)として拡大され、翌年にも第2回が行われたので“豊中“の名は全国に知れ渡ることになったわけです。
赤レンガの外壁に囲まれたグラウンドは2万平方メートルと広く、当時としては日本一の設備を誇ったそうです。その赤レンガが今も住宅に利用されて、当時の面影を残しています。ご承知の通り、1988年第60回大会を記念してつくられた“球史ここに始まる”と記されたレリーフが貼り込まれた「メモリアルパーク」は玉井町3丁目にあります。
——豊中駅の人工広場にはラグビー発祥のモニュメントがありますね。
【中右氏】大正7年(1918)1月12日、「第1回日本フートボール優勝大会」が開催されました。参加チームが少ないため、ラグビーの試合とサッカーの試合を同時にやっていたそうです。その当時はどちらも大変珍しいものだったのでしょうね。
——「全国中等学校優勝野球大会は当時大阪では野球がたいへんな人気で、たくさんの観客が詰めかけました。けれども観客があまりに多かったため収容しきれず、第3回大会からは、会場は西宮の鳴尾球場に移されることになりました」と豊中市のホームページにありました。そして、その豊中グランドが大正末期には無くなってしまうのですが・・・
【中右氏】そうですね。豊中駅周辺の住宅分譲は、大正3年、現在の玉井町から始まっていましたが、この年の8月に同社にとって大変な事態が起こりました。
——そのお話は次回にお伺いしたいと思います。今日は有り難うございました。


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