【豊中駅前の歴史:20】本町1丁目能勢街道沿い周辺(2010年11月)
このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は能勢街道沿いにお住まいの津浦さんにお話を伺いました。
——最近、能勢街道が話題になっています。摂津水都本町支店の横にも、新しく石碑が建てられましたが・・・
【津浦氏】私が小さい頃、昭和15~20年頃でしょうか、まだ能勢街道の雰囲気が残っていましたね。私の家も「中2階の出格子」の建物でした。その家で生まれ育ちました。稼業は代々材木屋でしたが、戦後大阪市内に店を移しました。この通りには畳屋さん、建具屋さん、表具屋さん、左官屋さん、大工さん、石屋さんなど職人さんのおうちが多かったように思います。国道176号(その頃は「産業道路」と呼んでいました)から入る西北角には大きなお屋敷があり、その隣が魚元さん、紳士服のお店、畳屋さんと続き、道を隔てて「中村旅館」がありました。岡町に向ってもう少し行くと、「大西旅館」があり、能登田の畳屋さんの向かいには「紀田梅」という、明治時代からのタバコ屋さんがありました。旅館が幾つかあったのも、昔の街道沿いの名残でしょうね。戦後にはもう営業はされていなかったと思います。
——その「中村旅館」とは今「長尾ビル」になっている所だと思うのですが、その角にお地蔵さんがありますね。
【津浦氏】「栄地蔵」のことですね。その昔、あの辺りはため池になっていたそうで、夢のお告げがあり、その池の中に沈んでいるお地蔵さんを見つけ、引き上げてあの場所に祭ったそうです。その引き上げられた方の子孫が今も講元をされています。「栄地蔵」は能勢街道沿い住む私たちのシンボルです。私たちは「栄地蔵」の「栄」を頂き「栄会」という婦人会を作っていますが、以前住んでおられ方も必ず1年に4回の集まりには、参加されています。結構遠い所からでも来られます。昔は近所同士ほんとうに仲が良かったです。次の世代にも引き継げればと願っています。稲荷神社の秋祭りに3年前に登場した「女性みこし」は、戦後まもなくの頃、栄地蔵の近隣四軒の有志が子供みこしとして購入、本町1丁目自治会に寄進したものです。長い間大勢の子供たちが法被(ハッピ)姿で御輿を担ぎ、お祭を楽しんでいましたが、ここ数年間神社の倉庫に預けられていたのが復興されたのです。子孫として嬉しく思っています。 戦後、あの辺りが大きな火事に見舞われ、オアシスの方まで焼けてしまいました。今、お地蔵さんからオアシスまで道がありますが、この道はその火事がきっかけで出来たと聞いています。因みにオアシスのある所には、「蓬莱湯」という銭湯が戦前からありました。
——私も岡町へ行くときはこの能勢街道を歩くのですが、旧街道の面影を感じる事があまり無いような気がします。今も畳屋さんや建具屋さん、石屋さんなどがありますが。
【津浦氏】やはり「阪神淡路大震災」のせいですね。あの地震で建て替わってしまったおうちが沢山ありますから。私も岡町にはよく行きますが、国道や高架できれいになった道より、能勢街道の方が歩きやすく、人の息吹が感じられるほのぼのとした道だからでしょうね。
——今日は有り難うございました。
(津浦由子氏プロフィール: 昭和11年生まれ 本町一丁目在住)
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