【豊中駅前の歴史:7】刀根山道の今・昔(5)昭和30年代を振り返る(2009年9月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、 これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました
今号からは、戦後から今に至る一番街や刀根山道の変遷を辿ります。今回お話を聞かせていただいたのは、新免会(旧新免農業実行組合)世話人の山本正一さんと土橋房冶さんです。

——前号で辻本さんから、刀根山道の西側は強制疎開した家を潰して道を広げたとお聞きしたのですが、一番街の方は、どうだったのですか?
【土橋】終戦直後は、今の半分ぐらいの道幅でした。今の広さになったのは昭和25年位だったと思います。白井さんのお家(現在の西川ミートショップやナカザワカメラがある場所)は、後退するにあたり、丸太を転がし、家屋を横に並び替えるといった工事(「曳家」)が行われました。その際近隣のお家も、同じ方法で配置換えして道を広げたと聞いてます。詳しくは、どなたかに聞いて貰えばと思いますが、その頃に今の道幅になりました。
——道幅が広がってから、今の賑やかな商店街が徐々に形成されていくのですね。
【山本】昭和30年頃の一番街は、今のように店舗が建ち並ぶ商店街と言った感じではなかったと思います。駅前の方は戦前からの店が並んでいました。木村屋のパン屋の横には電気屋、蒲団屋など数軒が並び、向かい側には一時パチンコ屋がありました。その並びに自転車屋、建材店、住宅、牛乳屋、道を挟んで私の住まい(現ルミエール豊中)となるのですが、向かい側は住宅が多く、さほど店も無かったように思います。光源寺に行く道の角には酒屋さんがありましたね。よく話に出て来る丸正もありました。丸正の横に北に向かって「東新地」と呼ばれていた通りがありました。その両側には結構沢山のお店がありました。入り口には農機具や種苗などを売るお店、お菓子屋、雑貨屋、肉屋などが並んでいました。肉屋の角を曲がると料理屋がありました。その隣がビリヤード、小さな旅館(今のビジネスホテル)、製麺所が続いていました。今のボゼムビルとコインパークとの間の路地ですね。戻って、肉屋の向こうには、洋食屋、一品料理屋、中華料理屋、スタンドバーなど、飲食店が軒を並べていました。ジオ1300がある辺りです。突き当りが今のユニバーさんの所になるのですが、それも昭和30年頃に出来たと思います。
——刀根山道について、もう少しお聞きしたいのですが・・・。
【山本】千里川から駅に向かって、山本の米屋さんの所までは竹藪でしたね。坂を上がって右側には銭湯(いなり湯)がありました。その頃は家にお風呂のある家も少ない時代だったので、良く流行っていました。その辺りから和楽さんまでの間には自転車屋、呉服屋、お好み焼き屋、和菓子屋など、今あるお店はその頃からあったと思います。確か「刀根山中央商店街」と呼ばれていたと思います。
一番街の方は、最初、松浦さんやシスター薬局の村上さんなど数軒が集まって親睦会(五月会)を作り、それが「刀根山商店街」となり、今の「豊中駅前一番街商店街振興組合」になって行く訳ですが、この辺りのことはもっと詳しい方に聞いてください。
——今日のお話をお伺いし、駅前の人工広場もバスターミナルも未だ無い、新開地も昔の市場だった昭和30年頃の刀根山道の様子が良く判りました。
次回は昭和30年代から平成になるまでのお話を聞かせて頂きたいのですが、
【山本】判りました。変遷に詳しい知人が大勢いますので、紹介します。


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