【まちなかの散歩:10】面と向かって(2009年6月)

 早朝のウォーキングを始めて3年になる。歩き始めた頃、挨拶をしない同好が気になり、やがて、すれ違う全ての人に声をかけることにする。犬の動きに目線が行き、愛犬との“会話”ができても、こちらの挨拶には怪訝な顔でまじまじと見つめる輩もあったが、やがて、そのほとんどが応答してくれるようになる。しばらくして挨拶をしてくれない人を観察すると、私だけではなく、すれ違うどの人にも目線を合わせていないことに気づく。折角の健康の源である散歩をしながら、残念である。
 笑いは、“いけいけ”の心から生まれるというが、心閉じていては残念ながら“いけいけの世界”である笑いは生じないし、健康は維持しにくいであろう。3ヶ月に一度、「まちづくり会社」が主催する「アイボリー寄席」のPRをここでするわけではないが、笑いこそ、人と人との垣根を取り払う武器である。落語で演者がどんどんと何人かの人物になりきる口調・所作に引き込まれるように気持ちを集中していく様子は、現場での演者と聴衆の関わり方が見られて、落語の内容と同様に興味が湧く。
 うろ覚えだが、大昔に心理学の授業で、面=ペルソナ(阪急のカードではない)=人格だと教えられた記憶がある。性格は、そう変えられるものではないが着物・服を重ねて着ていく内に、それなりの形が整ってくるというのも、これまた面白い。
 日曜礼拝の経験もなく、熱心な宗教心を持つほどほどもない者が言うのもはばかれるが、“心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も相手の胸に届かない“とか。
 現代社会を嘆く前に、これまで、課題・問題を前に、逸らさず・外さず“面と向かって”取り組んできたか?と自らに問い直してみることから社会の病理を直す第一歩が始まるのではないのか。梅雨時の梅ならぬ、「イソップの酸っぱいブドウ」の寓話のように、これは手に負えぬと諦めの言葉を捜す前に、社会変革は自己変革から始まると松明をかざしてみたいものである。
 道路横断時に、運転手に向かって手を挙げる、眼力とアイコンタクトの魅力さえあればドライアイにも、どえらい目に会わずに済むと期待してみたいものである。
 とはいえ、“夜目、遠目、傘の内”の季節に、目線を合わさず、“嫁と梅、母さんの家”と「晴耕雨読の世界」の意義も見つけてみたいと思う今日この頃でもある。そんな日が誕生すれば、ハッピィバースデイ 梅雨!

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.13に掲載)


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