【豊中駅前の歴史:100】回想の戦争時代2(戦争を振り返る-8)(2019年1月)

「回想の戦争時代」-2
学校からの帰り道に、近くの神社で行われていたその壮行会には、度々出会いましたが、カーキ色の軍服姿に赤い襷を掛け緊張した面持ちの青年を囲み、日の丸の小旗を手にした一団の人々は万歳三唱をして、「出征兵士を送る歌」を必ず歌いました。
 その歌の1節です。
わが大君(おおきみ)に召されたる 栄えある朝ぼらけ
  讃えて送る1億の 歓呼は高く天を衝く
  いざ征(ゆ)け 兵(つわもの) 日本男児
やがて、私が国民学校(小学校から改称された)4年生の1941年(昭和16年12月8日、日本海軍の真珠湾急襲を発端に日米戦争が始まりました。早朝の開戦を伝えるアナウンサーの緊張した声に、大変なことが起きたのだという不安な気持ちで、家族のだれもが押し黙ったまま、しばらく互いの顔を見つめ合っていました——————。でも人々の不安をよそに、開戦当初は日本軍の勝利が続き、シンガポール陥落の時など、勝利を祝う提灯行列が地区の稲荷神社へと続き、境内は人々の歓声と提灯の明かりで夜遅くまで賑わったのです。
ところがその翌年になると、ハワイに近いミッドウェー諸島沖での海戦で、日本軍は大敗しました。そしてその後は、あちこちの戦で敗北を重ねるのですが、真相は国民には知らされないままでした。でも私たち国民の殆どは、「神国日本」の勝利を信じて疑いませんでした。と云うより、人々の間には勝利に疑いを持つことなど許されない雰囲気があったとも言えます。
その頃には、私達国民の食料を始め日常生活に必要な物資の配給が途絶えがちになり、特に食糧の不足は深刻さを増すばかり。人々は自宅の庭先や空き地に畑を作るなどして、慣れない野菜作りに精を出し、食料の自給自足の生活が当たり前のようになっていました。その様な1944年(昭和19年)4月、私は憧れの女学校に入学しましたが、時間割は決められていたものの授業など殆どなく、上級生は女子挺身隊として軍需工場へ、私達下級生は畑に変わった校庭で農作業の日々を送ったのです。校庭ばかりではなく、当時まだ赤松の林だった千里丘陵に続く東豊中の空地を開墾して、小麦、ジャガイモ、サツマイモなど、米に代わる野菜作りに精を出しました。毎日のように学校から5キロも離れた開墾地まで、人糞を入れた《肥え桶》を担いで運びました。モンペを穿き満足な靴もなく下駄ばきで、愚痴もこぼさず黙々と歩きました。
 当時の母校(府立高女)の校歌の一節です。
かけまくも あやにかしこき おお皇国(みくに)
  明日の栄えを わが肩に とり負い持ちて
  朝な夕なに 奉仕の誓い 燃ゆる血を 胸に秘めつつ
  身を練りて 努め励まん 見よ我ら やまとをみな
私たちは、サツマイモや乾燥トウモロコシ、粟、稗などの入ったコメ粒など見当たらないほど薄いお粥で、ひもじさに耐えていました。「欲しがりません、勝つまでは!」と。また、「撃ちてし止まん!」とか「鬼畜米英!」と云う戦意を煽るプラカードが、街の商店の軒先など、あちこちに掲げられ、ラジオからも、人々を鼓舞するような軍歌が何時も流れていました。【続く】

プロフィール/西村惇子氏 玉井町在住


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