【まちなかの散歩:32】大正の中学生(2011年4月)

 世界にも未曾有のM9.0の東日本巨大地震が起きてしまった。亡くなった方々には哀悼の意を表し、負傷された方々には一日も早い回復を祈り、生活の基盤を失った方々には一刻も早い復旧を願い、この国家的な危機に我々の経験を活かして出来るだけの協力・支援することは勿論であるが、一方で我々の日常の問題として考える時、高名な建築家・建築学者・都市計画家、そして「住宅問題」研究の基礎を築いて数々の弟子を世に送られた故西山夘三京都大学名誉教授の指摘を想起したい。「生産力や技術は格段に進歩し、肥大した経済力による開発はますます巨大化している。この国土変改の規模と速度はますます大きくなり、予測のつかない生活空間が地表上に出現しようとしている。この変化を国民は自覚的に受け入れようとしているのであろうか。発展・開発への計画的な取り組みこそが将来の生活の破壊や困難を防ぎ、本当に豊かな暮しを築く…」(『まちづくりの構想』1990年都市文化社)。
 西山先生の著書『大正の中学生~回想・大阪府立第13中学校の日々~』(筑摩書房)には「新しい校舎」(62頁)と題して以下の記述がある。文中の「三平」は先生自身である。

「大正11年9月1日から始まった三平たちの第2学期は、はじめの1月をまたたくまに過ごした。いよいよ10月から待ちに待った豊中の新しい校舎に移る。9月23日の土曜日、阪急電車の社員が出張してきて学生通学定期券を発売した。…10月2日月曜日、多くの生徒は胸躍らせて、どんな校舎が出来ているか一刻も早く見たい気持ちで、阪急の豊中駅から学校への道を息はずませて急いだ。大阪市内から来たものは、駅のすぐそば横の踏切を越えて大阪方向にすこし後戻りすると、大きな十間道路が東北方向に走っているのがわかった。雑草が生え、ところどころ赤土の露出している道は、草花の生い茂っている広々とした辺りの野原と境界が必ずしもはっきりとしていなかった。茫漠とした原野が学校まで1.3キロほどつづいていた。…駅の東側には新免の集落があるのだが、民家や集落を避けて新しい道をつけたので、登校路の両側はほとんど何もない荒地だった。…校舎の後には箕面の山々が近くに見え、その手前には低い丘が連なっている。西の方遠くには六甲山塊がつらなって見えた。天気の良い日に屋上にのぼると、遥かかなたに「茅渟(ちぬ)の海」(大阪湾)が見え、煙に鈍く覆われている大阪の市街が望まれた。」

 長々と引用させて頂いたが、住み・働き・学び・遊ぶ場である我々の町の歴史がここに残されている。読者は、どのような感慨を持たれたことだろうか。青年が「息はずませて急ぐまち」を我々は引き継いでいるのだろうか。刀根山道の道路が変わった。果たしてこれまでの豊かな遺産を引き継いで街の風景も変わるのだろうか?西山先生も道往く人々もまちの人々の心根を見つめていることだろう。ちなみに大正11年は1922年である。
 本紙連載中の「豊中駅前の歴史を振り返る」(※)と合わせてご覧頂ければ幸いである。


※「豊中駅前の歴史を振り返る」は3月で23回になります。第1回から第22回まで合本として販売いたしております。本コラムもまとめています。お問い合わせください。各300円。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.55に掲載)


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