【隠居の繰り言:1】−「すり替え」と「触れられないこと」−大阪都構想①(2020年9月)

「豊中まちづくり研究所」の支援者である都市政策研究者の隠居による新コラム。2020年9月から連載スタート。

−「すり替え」と「触れられないこと」−大阪都構想①

 社会の情報が、TVと新聞からだけという隠居生活をしていると、世の中一体どうなっているのかという疑問とストレスが溜まる。大阪都構想を巡る報道もそうだ。
 大阪府議会と大阪市議会で大阪都構想の制度案(協定書)が可決され、二回目の住民投票が実施されることとなった。
 新型コロナがまだ終息しておらず、議論を徹底的に戦わすことが不可能なこの時期になぜ急ぐのか。政令指定都市大阪市を廃止し、普通市の権限すらない特別区に4分割するというのは、戦後地方制度の歴史で初めてのこと。世論調査では、住民生活そのものに大きな影響をもたらすこの制度変更の意味するところを十分理解している人は少数だと出ている。
 それだのに、特別区になるということの意味内容についても、マスコミ報道はほとんどの場合、推進論の側の受け売りに終わり、しかも正確とは言い難い。
 9月3日付の日経新聞の例だ。
 シリーズ「大阪都構想Q&A 暮らしどう変わる」、「大阪都構想 住民の声どう反映? 区長は公選、権限強化」という記事に次のようにあった。

「Q 区長の権限はどう変わるの?
A 今の区長は市長の方針に基づいて、区役所が担う事務を管理するのが主な仕事だ。区長が地域の特性に合わせた施策を進めようと思っても、区長が編成・執行できる予算は年間8億~20億円にとどまる。
一方、(中略)、制度移行後に特別区長の裁量で執行できるのは190億~240億円となる。また、議案の提出や公共施設の設置などの権限を大阪市長に代わって持つ。」

とあり、続く段落で現在の市長より特別区の区長は住民により近くなると書いている。
 少なくとも、表題とこの段落の書き方は正しい記事とは思えない。
 地方公共団体の長の権限の問題なのだ。特別区の区長の権限と比べるのは現政令市大阪の市長の権限でなければならない。現行政区の区長と比べるのは特別区の部長クラスだろう。「区」という語が同じことを良いことに、権限が格下げされる制度変更をあたかも権限が格上げされるかのように思わせる。印象操作と言われても仕方ないだろう。
 こんなことが随所だ。TVのワイドショーはいわんや、である。
 また、制度変更のメリットデメリットについても、経済効率の面面からの利害得失の論議が中心になっている。それは大事なことではある。
 しかし、「地方自治制度って何だろう」と改めて問い直してみたい。住民が、生活の安全安心、利便性、危機対応、税金の使い道のコントロール、など、自分の地域のことを、何をどの程度自分の手で決められるのか、という視点に立つと、経済効率だけではない多面的な議論が出てくるはずだ。
 “地方自治制度はかくあるべし”というモデルがあるわけではない。時代により移り変わってきたし、世界の国々を見ても制度は様々だ。
 地方自治法は日本国憲法と同日に発布された。地方自治は民主主義の要素である三権分立に加えて第四権ともいわれる。
 民主主義的な制度は、効率から見れば甚だ悪いものだ。専制主が一言いえば、上から下まで有無を言わさず従わせる制度は効率が良いだろう。しかし、それでは結局市民、国民の幸せに反するというのが、歴史だ。今の世界情勢、政治情勢を考える時の根っ子になっている。身近なまちづくりを考える時にも、重要な要素だ。
「特別区で市民生活はどう変わる?」ということは、マスコミでもいろいろ言われており、それは大事なことだ。問題はそれが、「正確か」という視点と、「もっと根本的な議論が抜けていないか」という視点で見ることが大事だと思う。
 大阪府市問題は様々な問題があることは皆が感じている。しかしそれを解決しようとするときは、その原因、歴史的経過、直していく時の根本的理念は何かということについて様々な議論と幅広い合意が必要だ。この側面の議論はどうしても難しくなる。時代の風潮か、そんな面倒くさいことは放っておけとなってしまう。いや、不都合な知識として、意識的に隠されているのだ。前回の住民投票の時でも、数百人に及ぶ専門家が意見を述べたがマスコミではほとんど無視された。今回、「外部の感情的な議論は控えてもらいたい」という推進者の発言があったが、これは、「専門家は口を出すな」ということだ。いやはや、コロナ対策でさえ専門知が無視される時代だ。
 しかし、住民にとっては、「一時的なムードに乗った安直な制度いじりで、より悪くなった」と後にほぞを噛むことになってはいけない。


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