【豊中駅前の歴史:25】本町7丁目 豊高道周辺その2(2011年5月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回も引き続き豊中本町郵便局の前局長中井さんにお話を伺いしました。

——前回は大池小学校が創立されたお話を伺いましたが、中井さんは最初の卒業生ですね。
【中井氏】昭和11年に克明第二(桜塚)の児童が分かれて、克明第三(大池)に移りました。桜塚から今は公園になっている観音池と下の新池の堤防を列を作って引っ越したことを覚えています。私自身第一期卒業生として、同窓生の数少ない老友と昔話に時を過ごしています。
——昔は池が多かったというお話はよく聞きますが・・・
【中井氏】私の子どもの頃は大変池が多かった。殆どが灌漑用でした。大池、稲荷神社参道の両側、観音池、国道の方に新池、現在の豊中郵便局(本局)も池を埋立て建築したもの。本町9丁目の豊高に至る小高いところやその向かいの本町8丁目にも蓮池がありました。小魚がとれる子どもの遊び場でした。
——遊び場には事欠かなかった時代ですね
【中井氏】千里川には蛍が群生していました。父に連れられよく蛍狩りに行ったものです。堤防には甲虫が好きな楢やクヌギなどがあって、金ぶんや甲虫を取りに朝起きして、よく行きました。稲荷神社もそうですね。今も大池地区の緑溢れる憩いの場となっていますが、私の子どもの頃は、裏山にきのこを採りに行った記憶があります。池では魚も釣れました。
——その頃の豊中駅前は・・・
【中井氏】昭和の初期の豊中駅は、豊中中学校と梅花女学校の生徒が通学する村の駅といった感じだったと聞いています。駅の前には池田―十三間を走る乗り合いバスの停留場がありました。また、駅前から東豊中の住宅地までを走るバスもあったそうです。出来たばかりの産業道路(現国道176号)は当時としては大変広い道路で、車も少なく、馬や牛に引かせる荷車が運搬の大半を担っていました。
昭和2年に豊中駅と豊中中学校の間に、豊中で最初の乗合自動車が運行されました。フォードの12人乗りで、主に豊中中学校と梅花女学校の関係者が利用していたようです。日曜日は休業、片道10銭だったそうです。
——そんな駅前が徐々に変わっていくわけですね。
【中井氏】大池が埋立てられ小学校が建ち、豊中市場や銀座通りが出来、戦後まもなく新開地に市場が出来ました。そして、東豊中や旭丘に団地、桜井谷に市営住宅が建ってから、徐々に発展していったように思います。道は農道の荷牛車が通る細い道が拡張され、自動車が往来するようになり、3丁目の街中は殊に刀根山道はゆっくり歩けないようになりました。豊高道も昭和30年代の初め頃までは、子どもを三輪車で遊ばしていましたが、東豊中の団地建設が始ると、おびただしい数のダンプカーが通り、道路に土の塊を落として行きました。その掃除におおわらわでした。その頃から車が走る数はめっぽう増えました。
——まちの発展に併せて郵便局も忙しくなって行くのでしょうね。
【中井氏】昭和の初期の豊中駅は、豊中中学校と梅花女学校の生徒が通学する村の駅といった感じだったと聞いています。駅の前には池田―十三間を走る乗り合いバスの停留場がありました。また、駅前から東豊終戦から世間が徐々に落ち着いてきて、駅前にも住宅が増え、駅前が活気を呈してきた頃、東豊中や桜井谷に大きな住宅地が出来、仕事の量も爆発的に増えました。昭和36年に私が2代目局長に就任しましたが、貯金の成績は近郊でもたえず1番で面目を施しました。古い局長達の中には、「ここは漏斗(じょうご)の受け口だ」と言う方もおられました。私どもの局がある場所は、桜井谷と東豊中と豊中駅前の三叉路で丁度「じょうごの受け口」のようだともじられたものと思います。戦前、戦中、戦後、そして高度経済成長期を経て新しい時代を迎え、父、私、孫が携わってきた私どもの郵便局が82年間も続けて来られたのは、地元の方々の暖かいご援助と親密なお付き合いによるものと心から感謝しております。
——今日は有難う御座いました。

(中井 和夫氏プロフィール:大正14年生まれ 前本町郵便局長 元大池地区社会福祉協議会会長)


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