【まちなかの散歩:33】“分けること”と“まとめること”(2011年5月)
今年の桜は、どの木も何故か色淡くボリュウム感に乏しかった。これは私の近所だけのことだったのか、それとも前年の激変する暑さ寒さの気温の影響で日本中の桜が押並べてそうだったのか。メディアは一連の震災ニュースで、そんな変化を丁寧に伝えるどころではなかったろうし、早々にお笑い芸人の楽屋話とクイズ番組が復活し、明け暮れている。
震災後しばらく、あちこちでの式典の初めに黙祷を捧げることが続いた。この行為が死者の冥福を祈ることだけで終わらず、震災後の関わり、その後の人間としての生き様を考え、自己変革・社会変革へと行動する決意となる儀式となることを祈りたい。
『「分ける」こと「わかる」こと』という故坂本賢三氏の著になる書物がある。「わかる」ために人間が行う「分ける」という作業。分類の仕方はまた認識の仕方を決定づけるという。それだけに迷うことが多い。このコラムも震災と関わりなく書き済ませるのか。
「分けること」と「まとめること」。被災現場と避難所、被災地と支援地。ゲリラ的支援と組織的支援。混合されて送られてきた救援物資を分けることの大変さ、求めない物を分ける苦労は阪神大震災で味わっている。東京では、豪腕知事の指示により、花見の自粛に始まり花火も同様の流れになったという。この大震災で東西の電気が50と60のヘルツという別の仕組みで流れており、関西で折角、節約した電気の融通が利かないことを知った方も多いはず。それでも「震災のため節電します」と謳ったところがあったのは経営戦略か自粛のためか。関西のスーパーで災害用食品がなくなったのは、東西の境を越え救援物資を送っていたのだろうか。
地方分権と広域行政の議論の中、統一地方選挙(自治体選挙)があった。国とともに地方、官僚とともにこの国・地方の将来を考える政治家・指導者の選挙である。かつて、中国では科挙に合格して高級官僚になった人たちは、試験合格までは儒教、つまり「人はかくあるべし」「正義とは」「正しいことは何か」という“建前”の孔子・孟子を学び、合格の瞬間から、「人間支配、国家運営のためにどうしたら良いのか」「世の中は、本当はどうなっているのか」という韓非子・孫子・呉子などの“支配の哲学”を学んだという。
今回の災害対応時の国・企業の指導者への批判の中、地方選挙後の自治体の指導者に期待するとともに、我々が日本の方向性を定めるリーダーを見極めるポイントであろう。
ちなみに、本紙毎号に告知欄を設けているように、まちづくり会社が毎月主催している「アイボリーフォーラム」は、6月21日(火)に、大久保昌一大阪大学名誉教授による『あるべき都市政策~都市政策のオリエンテーション~この時期に改めて聴く“大久保都市論”~』の開催を予定している。少し覚めた目、これまでから距離を置いた「分けた目」で、これまでの都市政策を考える機会として下されば幸いである。
(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.57に掲載)
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