【豊中駅前の歴史:99】回想の戦争時代1(戦争を振り返る-7)(2018年12月)

あの悲惨な戦争体験の記憶の風化が懸念される昨今、玉井町在住の西村惇子様からエッセイ「回想の戦争時代」の寄稿を頂きました。今号から3回にわたり連載します。読者のみなさま、貴重な体験をお持ちの方は原稿をお寄せください。

「回想の戦争時代」-1
やがて第二次世界大戦へと拡大して行く日本と中国との戦争~日中戦争が始まったのは、1937年(昭和12年)の7月7日のことですが、その翌年、私は小学校へ入学しました。
その頃私の住んでいたのは、大阪の北摂地域にある豊中市ですが、市制が施かれてまだ2年目の小さな町でした。現在では、人口40万を抱える現代的な都市に発展していますが、当時は果樹栽培が盛んで、田園風景が其処ここに見られる田舎町だったのです。そして、そこで暮らす人々も、戦争が始まっていると云う緊張感などまるで持っていないかのような長閑な日々を送っていました。私達子供も、その戦争が後に続く暗い歴史を予告するものとは全く思いもよらず、何処か遠いところの出来事と聞き流すほどの無関心さで、専ら遊びに夢中の日々を過ごしていたのです。
ようやく子供心に、その戦争を意識し始めたのは、小学校3年生(1940年)の頃からでしょうか。米、砂糖、衣料などの生活必需品の統制が始まり(国家総動員法・1938年)、生活の不如意を嘆く母の言葉を時折耳にするようになったのです。また、隣組という組織が出来たのもこの頃(1940)のことです。現在、私達の地域生活を支えるのに自治会がありますが、隣組は、それとは全く違って、国からの様々な指令や規制が、市や町などの行政機関を通して、社会の隅々まで行き渡る様に作られた組織なのです。そして、それらの伝文は『回覧板』と呼ばれていて、それを隣の家へ届けるのは、大抵私たち子供の仕事でした。
とんとん とんからりと隣組
  格子を開ければ 顔馴染み 
  回して頂戴 回覧板
  知らせられたり 知らせたり
  
とんとん とんからりと隣組
  あれこれ面倒 味噌醤油
  ご飯の炊き方 垣根越し
  教えられたり 教えたり
この様な歌が流行り、私たち子供は、ただ無邪気に歌っていました。隣組とは、民意を統制するという国の強かな意図によって作られたものとは思いもよらない事でした。  また、通っていた学校の様子も少しずつ変わって来ていました。毎朝行われる朝礼で、校庭の北東に新しく建てられた校倉作りの「奉安殿」(天皇の写真~ご真影が納められていました)に、先生の号令の下、全校生徒が一斉に「最敬礼」をし、国の勝利と出征兵士の武運長久を祈るのが恒例となったのです。
その後に、校長先生の訓話が始まるのですが、それは何時も決まっていて、戦地の苦労を思い無駄を省き、よく勉強しなさいという話だったのですが、皆、直立不動《きをつけ!》の姿勢で聞きました。身動き一つしても、担任の先生から叱られ、朝礼後、運動場を一周する罰を与えられました。その様に張りつめた校庭の雰囲気は、今でも私の皮膚感覚で、はっきりと記憶しているほどです。
それから、毎月の1日には、全校生徒600人ほどが近くの稲荷神社の境内に整列して、揃って柏手を打ち、東に向かって「宮城遥拝」の最敬礼をするのも、決まった行事になりました。
日本は万世一系の天皇の治める世界に類を見ない尊い国であり、昭和天皇こそ、その現人神、いかなる敵にも負けない国だと、私たちは何時も教えられました。 軍服を着て白馬に跨り、儀仗兵を閲兵される天皇の姿は、ニュース映画や新聞紙上の写真でしか見る機会は無かったのですが、私達子供は、その姿に神さまを感じていたのでしょうか?
今となっては、その様に感じていたかどうかは、私自身でも定かではないのです。周囲の大人たちの雰囲気から、その様に感じさせられていたのかもしれません。 その様な雰囲気を感じさせられた出来事に、出征兵士を送る壮行会がありました。【続く】

プロフィール/西村惇子氏 玉井町在住


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