【豊中駅前の歴史:30】箕面街道付近(2011年10月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は本町7丁目にお住まいの奥田閲子さんにお話をうかがいました。

——奥田さんは長くこの辺りにお住まいされているとお聞きしていますが
【奥田氏】小学校に入学したのは「克明第三尋常小学校(現大池小学校)」です。卒業は「大池国民学校」です。戦時中に名前が変わりました。昭和21年に府立豊中高等女学校(現桜塚高校)に入学しましたが、学制が6・3・3制に変わり、卒業は「府立桜塚高校併設中学校」です。当時、今の豊中高校を「とよちゅう(豊中)」、桜塚高校を「とよじょ(豊女)」または「じゅうし(十四)高女」と呼んでいましたね。そして翌年桜塚高校と名前が変わりました。その桜塚高校を卒業したわけです。6年間同じ学校ですが、名前が変わって行きました。私の学生時代は、戦時中から終戦直後の世の中がめまぐるしく変わっていく時代でしたね。
——大変な時代を生きて来られたのですね
【奥田氏】その頃は食べるものも着るものも全て配給でしたので、大変困りました。今の上野小学校がある辺りに、学校からサツマイモなどを植えて育てました。収穫期には先生や用務員さんが調理をしてみんなで食べました。六甲の夕焼けを見ながら食べた想い出があります。箕面街道の路肩は今はコンクリートですが、その頃は土でしたから、そこにも菜っ葉など野菜をつくりました。靴も配給でひとクラスに数足しか来ません。裸足の生徒がたくさんいました。そんな生徒を見て自分も裸足で授業される先生がおられ、今も続く一年上の期の同窓会の名前は「はだし会」だそうです。
——お住まいはどの辺りでしたか。
【奥田氏】私が生まれたのは本町4丁目で、橋本のタバコ屋さんの裏側です。そのころは周りは田んぼが多く、お宮さんや大酒さんのお店も見渡せました。縁側に立っていると、父が新聞を読みながら歩いて帰って来るのがよく見えました。そのころの箕面街道を通るのは荷車が多く、たまに木炭車が走るのを見かけるだけののんびりした道でした。
——広いお屋敷だったのですね。
【奥田氏】150坪ほどでしたね。庭が広かったです。自転車で遊んだり、ブランコがあったりして、庭でよく遊んだ記憶があります。建物は祖父が大工の棟梁をしていましたので、その当時の様式で洋館のある和風の建物でした。大変頑丈に作ってあったようです。
——おじいさまの話を聞かせて下さい。
【奥田氏】昭和の初めに大阪からこの地に移り住んだと聞いています。祖父が建てたお家はこの辺りにはたくさんありました。現在住んでいる私の家の前に、梅や桜の樹があり、今はキンモクセイやフヨウが咲いているお家がありますが、それも祖父が建てたものです。仕事は自分が気に入るまで丹念に仕上げたので、あまり儲からなかったらしいです。内田の酒屋さんにお酒を樽ごと預けて、大工さんや左官屋さんに振舞っていたそうです。63歳で亡くなりましたが、髭をたくわえていましたので、「豊中の乃木さん」と呼ばれていたそうです。
——奥田さんの旧姓は「吉村」さんですね。お話を伺ったそのお屋敷の近くに「蛇神社」があり、小西さんの石碑に並んで吉村さんの名前を刻んだ石碑がありますが。
【奥田氏】私の聞いた話ですが、昔は蛇は家の守り神とされていました。小西さんは植木屋さんで祖父と一緒に仕事をすることも多く、小西さんの敷地に祠を祭ったということです。他にも石碑はありますが、それも一緒に仕事をした方々のもではないかと思います。蛇は縁起の良いものとして、脱皮した皮をお守りとして財布に入れておくと、お金に不自由しないといわれ、よく財布に入れていたものです。この辺りは最近は見かけなくなりましたが、昔はたくさんいましたね。お宮さんの森や池があったからでしょうね。
——「蛇神社」の謂れが分かったようで嬉しく思います。今日はありがとうございました。

(奥田 閲子氏プロフィール:昭和8年生まれ 本町7丁目在住)


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