【まちなかの散歩:61】夏の終わりに(2013年9月)

 “盆の入り”の8月12日に摂氏39.8度などという体温であれば慌てて医者にかかる程の暑さを記録した豊中は、夏の峠を越えても今なお熱気が残り、弱った体力をさらにイジメてくれる。公表される豊中の気温が、大阪国際空港(伊丹空港)にある大阪空港測候所の測量によるものであり、豊中市内の気温とは異なると知ったのは、少し前のことである。あの広いコンクリートの滑走路の熱気・熱風に曝される百葉箱では、さもありなんと・・・。

 そんな空港周辺地域で航空機による排気ガスで鼻血被害に苦しめられる住民に対し、対策が講じられた時代を知っている。航空機騒音の被害住民による切実な訴えは、1986年には国に届けとばかり最高裁まで行った。世界規模で環境に重点が置かれるようになり、当時のトップニュースだった騒音訴訟も、♪そんな時代もあったね♪と、今は語られることも少ない昔話になったのだろうか?

 この夏、その航空機公害をはじめとする公害対策に、他市に先駆けて全力を挙げて取り組んだ豊中市の行政マン・島岡三郎氏がひっそりと亡くなった。著書である『縁の下の力もち』の題名そのままに、黙々と豊中市行政の近代化に努めた実践家である。密集市街地の庄内再開発を手掛け、今では当たり前のように思われている阪急豊中駅への急行の停車は、1986年、豊中市制50周年を記念する阪急との交渉の成果であった。市役所のIT化(“電子計算機”の導入)、千里ニュータウンの地元市としての取り組み、いくつもの広域行政の取り組み、千里川集中豪雨後の防災対策等、枚挙に暇がない。住民の悩み・訴えを決して逃げずに正面から捉え、与えられた権限・権力を工夫し最大限に行使する姿勢から学ぶことは多い。

 更に、時を同じくして入部香代子氏が亡くなった。「24時間介護が必要な全国初の車いす女性市議会議員」として1991年から4期16年を闘い、壮烈な人生を終えている。『はりきりオヤブンの車いす繁盛記』を初めて書いて19年後の2007年には、『引き出しの中、ぜーんぶ~香代子の車いすガッハツハ人生~』を書き上げる。その中で「一人一人の力は頼りなくても、みんなの願いが集まればきっと大きな力となることでしょう。この本を通し“年はとっても、障害があっても、誇りをもって生きることができる、誰にとってもやさしい社会”を目指す仲間との新しい出会いがありますよう、期待に胸を躍らせています。」と脳性マヒという障害を持っての歩みを記している。周囲の反対を押し切っての結婚と2人の子どもの出産と育児、障害者福祉工場の立ち上げを書き綴り、さらに、まだまだ死ねない、絶望から希望へ、地域に生きて暮らしを作る、と続く。大学でも障害者の実態を知らない多くの若者にも呼びかけ、障害を持った若者には勇気を与えてきた。

 僅かに時刻を前後して同じ日に両氏の葬儀が市内で行われている。今、先人の意欲的な生き方を学び、気温でなく、“住みやすさ”日本一の評価を受けるよう「市民と行政」の“連携と役割分担”を実践し、実現したいものである。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.112に掲載)


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