【北朝鮮逃避行:22】(2017年12月)
【追記2】母が私に話してくれたことの中で、「うちは逃げるとき何も持ってなかったけど、持ってる人たちも途中で朝鮮人が道にずらっと並んで待ち構えていて取っていたので一緒だった」「あんたは緑便ばかりしていたので、育つのかしらと心配したけど、三日三晩歩いてから元気になったよ」「三日三晩泣かないで歩いてくれて助かったよ」などの言葉は聞いていました。けれど、それがどういうことなのか、何時(いつ)の事なのかわかっていませんでしたが、今回、兄の話を聞くことで、旭硝子の社宅を出て、三十八産線を越えるまでのことを話していたのだとわかりました。
改めて、私は『怖い』と言う感情を封鎖する事で何とか頑張って生きてきたのだな、と思っています。私の生き方を知った感じです。ありがとうございました。(完)
(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.209に掲載)
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