【まちなかの散歩:126】恵方は寝て待て(2019年2月)

 “混迷の世に行方求める恵方巻き”年賀状の整理と新聞の年間予定集記事を手帳に転記したのが昨日のようである。年頭に読者の気持ちを高ぶらせてくれるような格調高い記事も少なくなっている新聞だが、年間予定行事を掲載するとはさすがである。『広報とよなか』にもこんな特集があったのだろうか?我々は目の前で浮かんでは消えていくニュースに惑わされ、地域社会や社会全体が大きく変化している現状から目をそらして(そらされて)いないだろうか。このような状況だからこそ、その生き様が直に見られる人々が集い、面と向かって語り合う機会が意義を持つ。「今だけ、金だけ、自分だけ」の風潮に逆らって真面目に生きようとする地域社会に必要な情報が提供されることによって、初めて賢明な市民が育まれると言うのは大袈裟だろうか。「得をする健康診断」のポスターは恥ずかしい。豊中市はいつから「教育・文化都市」の標榜を放棄したのだろうか。
 “寝正月 神も仏も何処やら”お笑い芸人が大騒ぎした正月番組はNHKにも日常化し、鮮度を失ったTVには煩わされずに時間を過ごす。すでに西国三十三所観音霊場参りも終え、熊野三山巡りも済ませたと言い訳して、今年は物心ついて初めて初詣を一服させて頂いた。とはいえ、先祖から(正確には母から妻に)引き継がれた迎春の神事・仏事は、尊い“家の神“の指示に従い厳かに行ない、雑煮の調理法も今年はようやく身に着けられたと。これまた”家内安全“の良策と人知れず微笑む。俗界を離れ、知人・友人から送られて来ている詩集・紀行文・論文、そして彼らからの推薦書、溜めに貯めた積読書を読み漁り至福の時間を過ごす。
 “定年の挨拶を加えた年賀状”お疲れ様。こうした誠実に社会・組織を支えている友人達に刺激を受け、助けられながら我がままを通してこられた。感謝である。我も彼らも次のステージも愚直に歩んで行けるのだろうか。「それは立派な理想=〈正論〉ですが実行出来ません」とつき放たれ、意見が〈スリランカ〉する日々の葛藤の中にある。商いも不調とされる2月のコラムも極めて低調と反省しきり。やはり初詣を怠った神罰・仏罰が当たったのだろうか? バツが悪い。
 “戻せるか揉み手で過ごした12年”さて来月3月号は市議会議員の選挙前の発行である。市長と議員が別々に選ばれる自治体選挙の2元代表制の意義を改めて確認しておきたい。4月の選挙ポスターに市長と並んで写り、市政を正当にチェックできない議員が何人いるだろうか。彼らは市民の声を反映するより市長の顔をうかがうことを最優先して、次の選挙も当選することを至上命題とする政治家であると表明しているようにも受け取れる。心したい。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.225に掲載)


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