【豊中駅前の歴史:71】小川が流れていた千里園1丁目(2015年10月)
今回は、千里園1丁目にお住まいの成瀬さんからお話をお伺いしました。
——成瀬さんは、いつ頃から千里園にお住まいですか。
成瀬氏:今住んでいる所で生まれました。家は建替えて今は残ってはいませんが、就職して2年ほど経った昭和47年まで住んでおりました。その後は各地を転々としましたが、父が亡くなった後に戻って、ほぼ16年程この地に住んでおります。20数年の間に駅前が大きく変わってしまっていて驚きました。
——小さい頃の駅前の思い出はありますか。
成瀬氏:沢山ありますが、2005年のアジア最終予選の対北朝鮮戦で、後半ロスタイム に決勝点を挙げて一躍有名になった、あの大黒選手のお父さんとは同級生でした。当事、大黒君のお母さんが、たこ焼きやさんをやっていて、学校帰りに遊びに行っては、たこ焼きを食べさせてもらいながら、宿題も一緒にやっていました。そのたこ焼きのお店が駅前にありました。一番街の入り口、ボゼムビルの駐車場あたりだと思います。周りには沢山お店が集まっていたように思います。
——現在は建替えられたとのことですが、以前のお家について教えて下さい。
成瀬氏:最初に建てられた家は空襲で壊されてしまいました。父から聞いた話では、爆撃は凄まじいもので、裏のお家に爆弾が落ち、ご家族は全員亡くなれたそうです。その爆風でわが家も潰れてしまいました。松の木など庭の木はみんな曲がってしまい、人の内臓が木にぶら下がっていたそうです。その家は大正の13~4年に建てられたと聞いています。元々父は大阪市内の玉江町の菓子屋に生まれ、そこに住んでいましたが、両親が結核で早くに亡くなったこともあり、空気の良い阪急宝塚線に住まいを求めて、始めは中山、次に岡町、そしてこの千里園に移ってきたと聞いています。玉江町の辺りは昔は大名の蔵屋敷が並んでいたところです。
——写真を拝見すると、庭に沢山のアヒルがいますね。
成瀬氏:この写真は私が幼い頃のものです。終戦直後、資材もない中で廃材を使って何とか再建した家で飼っていたアヒルです。当時食糧難で農家の親戚も無く大変困っていたようで、このアヒルたちが産んでくれる卵は貴重な食料だったそうです。その頃は家の前に小川が流れていました。アヒルはこの小川で育てていました。前の道から玄関まで橋が架かっており、毎日外出の時はその橋を渡っていました。この小川の水源は二尾(ふたお)池で、今は市民病院が建って殆ど残っていませんが、その当時は大きな池でした。そのうち道になってしまい小川は無くなりました。
——今日はありがとうございました。
プロフィール/成瀬 伸夫 氏 :昭和22生まれ/千里園1丁目在住
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