【豊中駅前の歴史:56】「豊高道」~昔はもっと広かった~(2014年5月)
今号は豊中高校の卒業生が作る「豊陵会」の会報から平成9年10月25日発行の「変わる景色②トヨコウ道」を紹介します。
『豊中銀座街のはずれ、スクランブル交差点の一角に高さ1米位の石の道標がある。「右 豊中々 梅花女学校道」と刻まれている。昭和二年の設置である。所謂「学校道」、豊中中学、豊中高校の卒業生の多くは在学中この道を歩いている。かって「トヨチュウ道」とも「中学道」とも称し、今は「豊高道」とも呼ばれている。同じ道を通ったにしては「梅花道」と言う言い方は地元の人もしていないようである。(梅花さんには誠に申し訳ないが)
この道の東側は梅花高女生が白線三本、紺ネクタイのセーラー服で、西側は黒い学生帽、黒い制服の豊中中学生が左肩から斜めに白い鞄を掛けて、それぞれ通学していた。道幅11米、車道を挟んだ両側道には厳然たるかっての男女の壁があったことを懐かしく思い出す旧制を体験した卒業生も多い。「卒業式の帰途、初めて東側を歩いて何となくうれしかった」と話していた人もいる。
この道路、正式名称「東豊中線」は大正十一年豊中中学が現在地に建設されたのに伴い豊中駅からの通学路として開かれたのが始まりである。しかも、舗装もされない地道、坂を登る荷馬車が苦労していたが、当初は中学生、女学生の外は数少ない住民が歩き時々、十二人乗りの阪神合同バス(阪急バスの前進)が東豊中まで走るのんびりした道路であった。現在の通行量を見ればまさに隔世の感ひとしおと言える。
当然のようにこの道を取巻く環境にも大きな変貌があった。丘あり池あり竹藪あり野ッ原あり、そうした自然を従えるように数少ない中高級住宅、そしてポツンポツンと三軒しかない酒屋を始めとするいわゆるおみせ、この面影はマンション・スーパー・建替えられやや小型化された住居などによって、消え去ろうとしている。稲荷神社の参道の左右、今の稲荷山公園がかっては池であったことを知る人はあまりいない。空き地はほとんど見当たらない。現代への変質から追憶を辿ることは難しい。流れる時代の移行にある種の抵抗すら覚える。
古くからこの道路沿いに住む人の声を聞いてみた。「昔は学校道としての雰囲気があったのですが、今は単なる生活道路という感覚です。しかも豊高は去年の服装自由化のせいもあるのか、所謂「豊高道」の味わいはなくなってきたように思います。なにか寂しい気がしますね。(A)』
※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。