【豊中駅前の歴史:12】豊中クラブ(2010年3月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました
今年は阪急電車開通の100年目にあたります。これを機に、大正2年の豊中駅の開業と共に開発され、豊中の都市化の原動力となった駅西側の住宅地の移り変わりを辿ってみます。今回は豊中連合自治会会長の中右さんにお話をお伺いしました。

——昨年10月5日の朝日新聞に「豊中クラブ」(旧豊中倶楽部)についての記事がありましたが、
【中右氏】「箕面から移築された」話のことですね。現在調査中とのことですが、まず間違いは無いようです。専務の小林一三さんが先ず住宅開発を始めたのが池田市の室町住宅ですね。そこには「室町倶楽部」、続いて箕面の桜井倶楽部、また豊中に豊中倶楽部が計画されていました。3箇所とも売店も併設された新住民の交流の場、サロンといったものだったのでしょう。ビリヤードや卓球台もあるアミューズメントな集会場といったものでしょうね。そして「豊中クラブ」は大正6年から今に至るまで、地域の集会所として、豊中連合自治会が管理・運営しています。建物の前の道は今は本通りと呼んでいますが、戦前までは「桜通り」と呼ばれ桜並木の素晴らしい通りでした。
——豊中連合自治会の連合とは?
【中右氏】未だ豊中市が豊中村といわれていた頃の山の上、轟、岡町、桜塚、新免の5つの区があり、住宅開発が先行した豊中駅西部は新免から独立して、大正12年のに豊中区となりました。9つの自治会が連合したものです。
——その連合自治会の集会所である「豊中クラブ」がどうして箕面から移築された(未だ調査中)のでしょうか?
【中右氏】1907年(明治40年)に設立された箕面有馬電気軌道が、1910年(明治43年)3月10日に現在の宝塚本線・箕面線を開業したのが始まりです。当時箕面の駅前には、「箕面の滝」を見物する人をターゲットに動物園や公会堂、大きな滑り台、山の中腹には大観覧車などがある「箕面公園」、今で云うレジャーランドがありました。その入口に国内初の喫茶店といわれる「カフエーパウリスタ」があったのです。「明治44年6月25日開業」のポスターが現存しています。この「カフエーパウリスタ」の創業者と小林一三さんとは大学時代の先輩後輩の間柄であったと聞いています。 ところが、近隣の人達がこの猛獣のいる解放的な動物園に不安を抱き、退去を求めました。また、維持費もかかるため、自然の滝の姿に戻しました。動物園と公会堂は宝塚へ移され、ファミリーランドや歌劇場ができるのです。きっとその頃に「カフエーパウリスタ」は豊中に移築されたのではないかと思います。建物は洋館であると立証されています。
——大変興味深いお話ですね。年表によりますと、箕面の動物園は大正5年に閉園されたようです。豊中駅ができたのが大正2年ですね。
【中右氏】能勢街道、箕面街道、刀根山街道などがあり、他地域への基点であったことが、豊中に駅をつくる大きな要因だったのではないかと思います。
——次回は、豊中グランドや最初に開発された住宅地などのお話をお聞かせ下さい。今日は有り難うございました。


※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。