【豊中駅前の歴史:88】新免村の面影(2017年7月)

今号は本町3丁目の法雲寺近くで生まれ育った金井さんにお話を伺いました。

——今日は金井さんの若かりし頃のお話を聞かせてください。
金井氏:私が生まれた家は昔は新免村と呼ばれていた所で、法雲寺さんと軒を並べる一画にあります。今では子どもの頃の古い家はすべて建て替わっていますね。村長だった本家は江戸時代の庄屋の屋敷のようでした。その当時を物語るものは辻さんのお家の門だけですね。豊中大空襲ではこの辺りも家が爆弾で潰されたり、焼夷弾で焼け落ちたりで大変な被害を受けました。沢山の方が亡くなられました。幸いにも、私たちの一画は、昔の村のまま残りました。
——でも大変な目に遭われたのでしょう。
金井氏:裁縫を教えていた母は、私たち子どもを乳母車に入れ、「お願い。助けてね」と言って知り合いに預け、自分は教え子たちを先導して逃げたと何度も聞かされました。
——学生の頃の思い出をお聞かせください。
金井氏:昭和30年代の頃ですね。その頃は買い物は新開地市場や阪急豊中市場でしたね。でも家々を回ってくる魚屋さんや八百屋さんからも買っていました。市場と言えば果物屋さんに春に並んでいた「いちご」をよく思い出します。今はいろいろな品種があり1年中食べられますが、その頃は春の2ヶ月ぐらいだけで、今ほど甘くはなかったですが香りが店先から溢れていました。スプーンの裏で潰してミルクを掛けて食べるのが大好きでした。今ほど高くなくたらふく食べられました。
——路地栽培のいちごですね。
金井氏:最盛期の頃は農家の人が軒先を借りて自分の畑で育てたいちごを売っていました。その頃の八百屋さんに並ぶ野菜は近郊で採れた野菜も多かったですね。豊中温泉の隣にある青果市場で仕入れていたのだと思います。筍の季節になるとものすごい数の筍が毎日売り買いされていました。特に「刀根山の筍」は珍重されていました。新免、桜井谷、熊野田、上新田から千里まで竹やぶが多く、筍が沢山採れました。親戚や近所でも随所に藪を持っている家が沢山ありました。缶詰を作っていたお家もありました。昔は千里川に筍の缶詰工場が並んでいたと聞いています。
——今では見かけないものが沢山ありますね。
金井氏:「バクダン」て知っていますか。お米を機械で圧縮して一気に空気を抜くと大きな音がするので「バクダン」とみんなが呼んでいました。ポン菓子ですね。リヤカーに機械を積んで自転車で来ていました。姿を見るとみんなお米と砂糖と袋を持って走って行きました。10円ぐらいでしたか、よく憶えていませんが。少しのお米が膨らんでいっぱいになるのが嬉しかったですね。
——秋祭りの時はどうでしたか。
金井氏:秋祭りといえばマツタケのすき焼きでした。マツタケは親戚が持って来て、我が家は鶏を用意していました。農家ではなかったのですが、鶏は家で飼っていました。それを絞めて料理をするのですが、父は怖がり絞めるのは母の役目でした。「どじょう寿司」も必ずありました。その頃は周りは田んぼだらけで、田んぼの溝には、いくらでもどじょうがいました。捕まえたどじょうを塩で弱らせ、丸ごと焼いて、包丁で細かく叩き、味付けして、松竹梅の型で押します。美味しかったのですが、小骨がチャリチャリして少し嫌でした。我が家では作らず、親戚が持って来ていましたね。
——鶏を絞めるのがお母さんの役目だったのですか。
金井氏:父は会社務めで殆ど農業はしませんでした。実家も農家ではなかったので、そのような経験はなかったのだと思います。退職後は地域のために役立ちたいとの思いで、長く自治会長を務めていました。
——山上源次郎さんですね。今日は有難うございました。

プロフィール/金井(旧姓:山上)伴子 氏 昭和18年生まれ 北桜塚在住


※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。