【豊中駅前の歴史:83】アメリカン・フットボールの発祥地:豊中(2016年12月)

今号はアメリカン・フットボール(アメフト)の発祥の歴史について、豊中高校豊陵会資料室の生みの親 浅井先生にお話をお伺いしました。

——このシリーズの第52回(2001年2月中旬号掲載)で、小野さんから在学中に進駐軍からアメフトを教わったとお聞きしました。
浅井氏:昭和21年に進駐軍が旧制豊中中学校と池田中学校でタッチフットボールを指導したのが始まりですね。アメフトのようにタックルではなく、両手で相手の背中に「タッチ」することで相手の攻撃を止める、より安全なスポーツでした。昭和46年には現在のアメフトになりました。創部50年周年に設置された記念碑が校内中庭にあります。碑文に「不幸な戦争が終わり、それに続く数々の混乱のなかで、私は高校生達に生きる活力を与えるために、1946年10月1日、この豊中に“タッチフットボール”の種を蒔いた。これが日本の高校アメリカン・フットボールの発祥の地となった。「ピーターK. オカダ」と刻まれています。
——どうして進駐軍がタッチフットを指導することになったのでしょう。
浅井氏:資料によりますと、「連合軍は教育改革を積極的に進めた。その1つにスポーツの振興がある。青少年の育成のため、ことに団体球技を積極的に奨励した。・・・この年の9月、大阪軍政部のピーター岡田がフットボールのボールを持って大阪北摂の2つの中学校、池田中学(元大阪府立池田高校)と豊中中学(同豊中高校)を訪れる。そこでタッチフットボールの講習が始まった」とあります。当時在校生であった私達は「進駐軍に接収されていた伊丹空港の芝刈りの勤労奉仕への返礼として教えに来た」と聞いていました。記念すべき初試合は同年12月28日、西宮第二球場で両校が戦い、6-0で豊中中学が勝ちました。
——終戦直後に今まで軍国主義の教育をしていた学校でいきなり進駐軍が教えに来て、どうして普及して行くことが出来たのでしょう。
浅井氏:豊中、池田の両校は、戦時中でも英語教育を行うなど、旧制中学の中では比較的リベラルな学校であったこと。英語を介する教師がいたこと。なによりも若い男子生徒にとって柔道などの武道は禁止され、他のスポーツは戦時中からの禁止令から復活していない中で、体を動かせる事に喜んだのだと思います。
——その後フットボールの普及は凄まじいものがありますね。

浅井氏:「この両校が阪急電鉄沿線であり、関大、関学、同志社といったフットボール部のある大学に通いやすく、この3大学への進学者が多かったことが西宮球技場を含め、関西のフットボールは阪急沿線で大きく花開く事になる。」と資料にあります。
——今日は有難うございました。

プロフィール/浅井 由彦 氏 昭和6年生まれ 上野東在住/豊高2期生 元豊中高校教諭


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